ぱぱと ままの けんか

 

 枢木家は半年ほど前に一人家族を増やして四人になった。枢木ナナ、およそ母親の稀な美貌のすべてを受け継いで生まれたようなきれいな赤ん坊で、その瞳の色は父親譲りの若葉色。まだやわらかい髪の毛は成長すれば艶のある黒髪になるだろう。
 その将来有望な妹と親子ほども歳の離れた長男は、元が冷静で大人しい性質なので、はじめての兄妹に一歩引いた場所で接していた。甘やかしてかわいがってやりたい気持ちはあるのだが、どうもこの小さなレディはまだ自分と父の区別が曖昧らしく、「おとうちゃま」と「おにいちゃま」を区別できるくせに適用場面で覚束ない。
「あー、おとぅちゃま!」
「ちがうよー、僕はお兄ちゃまだよー」
と、いうやり取りが何度あっただろう。察するに逆の状況も同じ程度にあり得たはずで、実のところ三日に一度は家を空ける父親よりも妹と接する機会の多い兄の方が吸収期の赤ん坊のメモリーには残りやすい。つまり、大好きな奥さん似の娘を授かってめろめろ幸せ絶頂期のはずだった父親は、しばしば息子と間違えられてしょんぼりしていた。
 だから家にいる間はごはんを食べさせてやったりオムツを替えてやったり風呂に入れてやったりと、育児に積極的なパパである。息子は譲ってあげるのだ。そしてママは現在講師をしていた大学の院に入りなおすために育児休業を兼ねてお休み&勉強中だ。最初の子どもを育てられなかった後悔からか、一日家にいて家事に育児にかかりきれる今の状況にくるくると奮闘している。長男がなるべくして潜在的パパっ子になってしまったことを悔しがり、「ナナはママっ子にするんだ」と決意も固く呟くのに年の差二倍の夫が微笑ましい視線を送っていた。(危機感ではない。パパの狙いはママには出来ない『わたし、パパのおよめさんになるの!』と言ってもらうことである。)
 のだが。
(父さんには女心ってものがわからないんだろうか…)
 長男は両親が口論をするのを眺めて思った。実際珍しいことである。子どもの目から見てもこの父母は仲がよく、惚れ合って結婚したのだと容易にわかる睦まじさで日々を過ごしている。自分にないものを相手に見つけて尊敬し合う、パートナーシップとしては理想的な関係を築けているものだと感心していた。ただどうしても立ちはだかるのが年齢の壁で、本来であれば四つ差の平均的な夫婦だったのがスーパーナチュラルのせいでほぼ二倍の開き。22歳と42歳のびっくり年の差夫婦なものだから、不惑も超えた父が依然少女のような瑞々しい美貌の母を見る目はあたたかい。そりゃあもう長男もドン引きするくらい生ぬるい。二児をもうけてやることやってる夫婦なのだが、日常会話のコミュニケーションにおける彼らはうっかりすると兄と妹、叔父と姪、父と娘、とにかく年上の父がかわいらしい母をべたべたに甘やかす光景が展開される。贈るものだって妙である。ぬいぐるみをもらってツンデレに喜ぶ母はまだ許せるが(「もうベッドの上に置くしかないぞ。落としたら怒るぞ!」)、少女趣味なワンピースを贈り、照れ照れ着ている母を「かぁわいいねぇ」とにこにこ眺める父は通報したい。膝に乗せるのはぎりぎりセーフ、頭を撫でるのはアウトである。
 ただ母も「まずあの顔に惚れた」という父にめろりんこの人なので、基本的に子供扱いされたからといって夫婦喧嘩に発展することはないのである。基本的には。つまりこの時万年いちゃらぶ新婚夫婦はレールを外れた。父が、母の地雷を踏んだのだ。

 少しだけ話を戻そう。
 先にも述べたが、父に遠慮して一歩引いたところで家族の三人を見守っていた長男の目にも、母が一生懸命「ママらしい」ことをしたいと頑張っているのは明らかである。完璧主義の人なので家事一つ赤ん坊の世話一つに手を抜かない。育児ノイローゼになるんじゃないかと身近で見ていた長男は心配していたのだが、それを救っていたのが大らかといえば聞えはよい大雑把な父の存在だった。加えて父の実家は産科医院であり、父の父も兄もママと赤ん坊のプロである。父自身が医者じゃなくても父の言葉には説得力を感じるらしく、母は主に赤ん坊の健康について粛々父の言う事を聞いていたのだ。なに、特に難しいことじゃない。例えば子どもが夜中に熱を出したとか泣き止まないとか、なかなかミルクを飲まないとか。「大丈夫だいじょうぶ、この前と同じちょっと熱だし赤ちゃんは泣くのが仕事だしさ、ルルだって朝ごはん食べたくないことあるでしょ」と云う具合で、男手一つ(というわけでもないが)で一人息子を育てたベテランパパがおろおろ慌てる新米ママをのんびり諭すだけのこと。そしていつもはそれに大人しく頷いているのが母なのであるが、この時は母の経験が邪魔をした。珍しいことに新し物好きな母がちょっとばかり古風なことを言い出したのである。

「ベビーパウダーを塗る」

 ご存知でない方もおられるだろうが、今でもごくごく普通に薬品コーナーに並んでいるベビーパウダー。シッカロールで馴染んだ方も多いだろう。あせもやかぶれに効くからと、子どもの頃に母親や祖母あたりにパフパフされた記憶はおありでないか。やわらかいパフやふわふわのブラシで付けてもらった懐かしい思い出。しかし粉末状のものから子どもが吸い込まないようにと固形状のものまで出回っているが、今時の育児書には不人気だ。
「ルル、それはあんまりお勧めしない」
 デリケートな赤ん坊の肌が負けないようにと、綿のようなふわふわブラシを手に言う母を、仕事から帰って来たばかりの父が止めた。
「どうして」
「意味がないんだよ。少しはさらっとなるかもしれないけど、赤ちゃんって汗っかきだろ」
「また塗ればいいじゃないか」
「うんと…このくらい小さいとね、汗腺もすごーく小さいんだ。パウダーを塗ると塞がっちゃう」
「む…でも私も母さんにやってもらったのに」
 大好きな自分の母親と同じことを自分の子どもにもしてやりたいと思うらしく、そしてこの「パウダーぱふぱふ」はとってもやりたかったことらしく、母も容易に譲らない。息子は困ったように頭をかく父をちらりと見たが、こちらもまだ引く気はないらしかった。
「アズマにもやったし」
「まあこの子の時は冬だったしねぇ」
「まったく意味がないのか?おむつかぶれが治まった気がしたんだが」
「そりゃちょっとは効くだろうけど、今は夏だもの。水分を持った粉に雑菌が繁殖したりするからなぁ」
 こまめに洗ってあげているでしょう、それだけで十分だよと宥める父に母も少し考える顔をした。咎める風でもなくのんびり言う父の口調なら反感も覚えないのだろう。内容だってわかりやすく素直なものだ。息子は丸く収まりそうだと安堵して自室に引き上げようとしたのだが、この時父が余計なことを言ったのだ。のんびりのんびり、
「ほら、母子手帳あたりにも書いていない?産婦人科の看護師さんも止めるらしいし」
 こう言った。
 母の目が何かの予感にすっと細まるのを息子は見た。父は見ていなかった。とどめに
「FAの○○さんが教えてくれたんだよね」
と締めくくる。

 アズマはあちゃー…と顔を覆った。父さん鈍感!と心の中で叱咤する。母は連れ立って歩けば五分五分で父娘に見られる自分たちを、はじめのうちこそしょんぼりする父をからかって遊んでいたのだが今では一緒にしょんぼりするのだ。「ごめんな私のせいでスザクを変質者に…」と謝る姿は憐れである。妻に変質者呼ばわりされて頬を引き攣らせる父はもっと憐れなのだが、「かぁわいいねぇ」と鼻の下を伸ばしていることも知っているので同情する気も失せるというもの。「期待通りのダンディ・スザク」に成長(?)していたらしい父に釣り合う「大人の女性」になりたい母としては、美人でカッコイイの代名詞のようなフライトアテンダントのお姉さんが憧れらしい。同時に仕事中の父を見ることが出来る上に(母は一般人なのでコックピットへは入れないのだ)ステイ中は一緒のホテルに泊まることもある彼女らにはほんのり嫉妬もするらしい(別に部屋は別なのだが)。つまり、だ。
 母は父がFAの誰かの話をするのが気に食わないのだ。特に○○さんには父がワイシャツのボタンを付けてもらっただとか腕を組んで歩いていたら「あら枢木さん、お子さんはお嬢さんだったかしら?(息子さんじゃなかったかしら?)」と言われただとか、挙句に「これうちの限定キャンディなの。おいしいわよ」と黙り込んだ母に飴玉をくれたりだとか、いわくのある人物なのである。あれ以来母は飴が苦手だ。
「そういう話、するんだ」
 母が低い声で言った。
「そういうって…写真を見せて、子どもの話になって。ほら、持ち歩いているやつ」
 ルルのも見せたよとどこか得意げに言う父よりも、母はその写真とやらが気になるようだ。見せろと言われて素直に取り出す父を、息子は止めようかどうしようか迷った。
「……これ、見せたの?」
 低ーい低ーい声で母が訊く。
「うん」
「スザクのばか!」
「うん!?」
 母がばかばか言うのに父は目を白黒させている。アズマはその写真がどういうものか知っていた。だって自分が撮ったから。父に頼まれたのだ。ちょおっとかわいらしいレースとリボンのワンピースを着てちょおっとかわいらしい黒猫のぬいぐるみを抱いて、ちょおっとはにかみながら微笑む美少女そのもののお母さん。「あんまりかわいいからこれは残しておかないと」と呟く父をちょいと警察に突き出そうとしてみたけれど、「別に他人に見せないならいい」と、どうも二十年近くほっぽってしまった夫に弱いらしい母が照れ照れと言うものだから踏みとどまった。どっちもどっちだと思ったのだ。それに子どもの目から見ても母はものすごく綺麗な人である。何を着せたって似合ってしまう。一枚くらいロリロリした写真があったっていい。しかし、だ。
 ひそかにライバル心を燃やしているらしい大人の女性にそれを見られて、母がショックを受けないはずはないのだ。たとえ父がでれっとそりゃもう得意げに自分の奥さん自慢をしていたとしてもだ。
「見せないって、言ったのに…」
「ああそうか!ごめんねルル、でも『とてもかわいらしいわ!』ってみんなびっくりするくらいで、」
「『みんな』…みんなってだれ?」
「ええっと、今日一緒のフライトだった四…五人くらい?あ、コパイには見せてないよ」
 男には見せられない、と不意に真面目な顔をして言う父の言葉はもう母の耳には届いてなかった。
「これを…スザクの職場の女の人たちに……う、うぅ…」
 ショックで母が泣きそうになる。久しぶりの二人のけんかにどう止めに入ろうか思案していた息子は、しかし自分が遅きに失したことを悟った。父が。
「ルル。僕はこの写真、お人形さんみたいで大好きだよ」
 と言いながら、母の頭を撫でたのだ。
「っ、子ども扱いするな」
 堪らなくなった母が鋭く言った。傍には目をきょろきょろさせているナナがいる。もう十九歳だが息子もいる。だから大声を上げたわけじゃない。静かにアルトが一息の重みを持って発された。
「『かわいい』と言われても嬉しくない」
 続く言葉は顔を伏せて音にされて、息子はそっと妹を抱き上げた。そして部屋を出る。父と母を二人きりにする。ドアを閉める時に首だけ振り返った父が「ありがとう」と口を動かした。


「…久しぶりに深刻なけんかだね」
 離乳食を食べさせてもらいおしめも替えてもらって機嫌のいい妹が、かぁたま、と手を伸ばしている。
「父さんと母さんが仲直りしたら連れて行ってあげるね。今日のお風呂当番は父さんかな」
「おにぃたま」
「僕でもいいけど受取ってもらわないといけないからなぁ」
「あー…」
 わかっているのかいないのか、息子が適当に相槌らしきものを打ってくる妹に話しかけていると、父がどことなく不機嫌な顔をしてやってきた。
「ありがとう。一緒にお風呂に入れるから」
「はい。ねぇ、ちゃんと仲直りした?」
「…」
 訊くと、一旦妹をベッドに寝かせて風呂の準備をしている父が口篭る。
「父さん?」
「…ルルは何を不安がっているんだろうね」
「焼きもちだってわかるだろ」
「それがわからないんだよ。父さんそんなに信用ないか?同僚と家族の話をするのは普通のことだよ。まあ写真のことは約束を破ってしまった僕が悪いんだけど…」
「信用するしないの話じゃないんでしょう。母さんには罪悪感がある。それがコンプレックスになっている。近頃は僕と一緒に出かけるのも気が進まないみたいだ」
「ルルは日本人から見たら随分大人びているけどなぁ…」
「父さんには母さんが何歳くらいに見えてるの?」
「お前の同級生だとは思わないな」
「歳相応ってこと?」
「父さんあんまり人の年齢当てるの得意じゃないんだけど……そうだな、二十四、五歳くらいに見えることもある」
「そのくらいの年頃の女の人に『かわいい』って言うのはどうなんだろうね」
「子どもを見て言う『かわいい』とは違うんだよ」
「母さん限定?」
「そうだ。でもそれがルルにはわからないんだよな」
「父さんの『かわいい』は口癖だもんねぇ…でも客観的に見てもおじさんが『かわいい』女の子をよしよししているみたいに見えるよ」
「…ほんと?」
「あの場面で頭を撫でるのはNGだと思うし」
「あれは…謝ったんだ」
「もうしないって約束した?」
「言われたけどしなかった」
「…母さん怒っただろ」
「だんまりになっちゃったから放ってきたんだ」
「賛成しないな。父さんだってされたら嫌だろ?」
「頭を撫でられることかい?」
「そう。ついでに『スザクってかわいいなぁ』って連発されること」
「嬉しいよ」
「…ほんと?」
「ルルにでしょ?素直に嬉しいなぁ。あんまりしてくれないけど」
「価値観の違いはどうしようもないな」
「されて嫌なことはしちゃだめだって教えたよ」
「わかっておりますお父さま。 うーん、困ったな、根本的に意識がずれているというか…譲る気はないの?」
「ない。父さん少し怒ってるんだよ。○○さんでも■■さんでも、ルルーシュと比べたことはないし比べようとも思わない。彼女が一人で卑屈になる意味がないんだ。かわいいと思うからそう言うだけだし百パーセント好意から出ているものなんだから……でも、まあ、ね」
「『まあ』、なに?」
 こそこそしていた会話を切り上げるように、準備の出来た父が妹を抱き上げた。
「要はルルだけ子どもっぽく見えるのが嫌だってことだろ」
「相対的にね。……あっちを上げるんじゃなくてこっちを下げるわけ?」
「アズマは昔から聡い子供だったよなぁ」
 歩きかけて振り返った父がいたずらっぽく笑う。
「お褒めいただきどうも」
 肩を竦めて返せば満足げに頷いて、バスルームへ足を向けようとした時、
「おにぃちゃまぁ」
と、妹が言った。
「…ナナ、さすがに二人並んでいるときに間違われるとおとうちゃまもショックだよ…」
 

「どうも、文脈を読んだ気がしてならないのは僕だけか…?」
 父と妹を見送る長男の呟きがぽつんと響いた。




・・・―――

 そして風呂上り、一足先に引き上げた妹にパジャマを着せて寝る支度を整えてやっていた母に、父が無言で近づいた。
 母も無言である。父を見ないようにして、ベビーパウダーは使われずに置いてある。きれいにしてもらってご機嫌な妹がきゃっきゃとはしゃぎ始めた頃に、父がどさっと腰を下ろしてあぐらをかいた。
 母に背中を向けて、母の目の前に。
「…?」
「…」
 風呂上りの父は汗が引くまでパジャマの上を着ない。だから裸の背中が母の前に広がっているわけだが、それを目にしても母にはわけがわからないらしかった。父も依然無言のままだ。正直、母よりも父親と付き合いの長い息子も、何やってるんだこの人は…と呆れかけたがふと気がついた。
「うんと…母さん、その、通訳する?」
「頼む」
 拭いてほしいのかしらと、タオルを取りかけてまだ複雑な心境らしい母が思案しているのに助け舟を出す。これはたぶん、先ほどの言葉を実行しているのだろう。『母さんが父さんより子どもなのがいやなら、父さんが子どもになってやるんだぜ』と、この背中の持ち主は言ったのであるから。
「『僕の背中に塗ればいいんだぜ』と、言っているようなんです、けど」
「塗る?…これ?」
 くだんのベビーパウダーを指差しながら母が言う。そう、それを、塗りたいのなら自分の背中にどうぞ、と、言っているのだと思う。
「たぶんね、あんまり考えたくないんだけど、赤ちゃんにするみたいに構ってほしいみたいなんだ、よね」
「…」
「まあほら、父さんだったら唐辛子を塗っても大丈夫だろうし」
「「さすがに腫れちゃうから」」
「…ハモリどうも」
 いつもの父なら喜んで母に背中を差し出しただろう。「赤ちゃんにだめなら僕に塗ればいいよ!」と自分で言ったはずである。こういうの、好きそうだし。だがだんまりを決め込んで母を困らせる辺りが父の怒りの現れである。
「スザク、」
「…」
 確認する母の呼びかけに黙って父が頷く。
「ふうん…。こんなだだっ広い背中に塗れってか。ふうん…」
 言いながら綿毛ブラシを手にした母が、ぱふぱふと父の背中に白い粉をはたいていく。半分ほど白くしたところで腕が疲れただの馬の背中だと文句を言う。
 息子はカメラを持って父の前に周った。ぱしゃりとシャッターを切って写り具合を確める。
「どっちもどっちだよ、お二人さん」



 母に進呈された一枚には、甘ったれた顔で幸せそうに微笑む父の姿が写っていた。



【おわり】






ええと、どっちもどっちということを書きたかったのですがうまくいかなかった…。ベビーパウダーとか今賛否両論否優勢って知らなかったです。微妙なネタで申し訳ありませんでした(特にスザクさんがちょっとおかしい)