一人が嫌か?なら誰かの手を取ればいい。
『誰か』って、誰さ。君は簡単に言う、でも決して簡単なことじゃない。
寂しいよルルーシュ、寂しいんだ。
どうして?
…どうしてだろう。
君は、ここにいたのに。
さよならと言って消える
「…何だか疲れる夢を見たような気がする。」
スザクはぼんやりと天井を見上げた。休日だ。目覚ましはかけていない。だから差し込んでくる日差しの強さで時間をはかる。九時か、十時。いつもなら駆け込んでくる生徒に恩情をかけつつ明らかに遅刻を免れない者には苦笑で門を閉ざし、職員室から出席簿を取り上げて教室に向かっている、そんな。
「…部活も、なし。」
まだ独身の男教員であるスザクには、男女共学のアッシュフォード学園において不足しがちな顧問数を補うために、掛け持ちで学生時代にならした剣道部と、これも母校でかつて副会長を努めた経験など意味も無いが生徒会を任されている。全国まで必ず進む部であるから同窓会や後援会への定時連絡や高体連絡みの諸雑務に追われ、自身が有段者であるためにコーチは別に雇っているもののたまには持参の竹刀を振るうし、生徒たちもそれを楽しみにしている者が多い。平日はもっぱら生徒会に顔を出さざるを得ないので武道館を閉める間際か休日の部活動で生徒たちと一緒に汗を流すことになる。世の中時間外労働へ不満を洩らす声も多々聞こえてくるが、部活動時間は実は時間外だということを知っている人間は少ない。スザクの努めるアッシュフォード学園は私学であるからそこそこの配慮はあるが、そうでない公務員の振り分けである教員の実態は本来の授業以外の持ち帰り仕事やいわゆるサービス残業に費やされる毎日だ。熱意があるうちは苦でもないが、体力の衰えと共に規定どおりではあるが最低限の務めしか果たせなくなるんだろうなと、人事のように思うスザクはまだまだ元気で夜は遅くまで授業資料を作成し組合の仕事も積極的に請け負い、休日は愛用の防具に竹刀を手にこれからの伸びを感じさせる子どもたち(とは言っても高校生だが)の相手をして過ごすことに充実感を覚える日々だった。
だが今日は試験期間で一同本分である勉学に励むよう部長を通じて活動なしと伝えてあるから、中休みをまたいでの試験日を割り振られた生物を受け持つスザクは、試験問題を作り終え昨夜印刷も済ませてきた身として非常に心穏やかに休日を満喫できる。三日間を越える試験期間の、たまには初日に実施して余裕を持った採点作業をしてみたいと思う気持ちもないではないが、今日のスザクは手持ち無沙汰ではないのだ。先日実に偶然の再会を果たした大学時代の友人宅を訪ねる予定があった。
「ルルーシュの夢だったのかなぁ…。」
彼の夢を見るといつも胸が締め付けられる。
手を伸ばせば届く場所にいたのに。笑って顔を合わせる毎日がそこにあったのに。交わす言葉が見つからなくて、怖くて目を瞑り耳を塞いで。本当はわかっていたはずなのに、美しいと信じた通り過ぎた日々にしがみ付いて“いま”を切り捨てた過去が、とても苦しい。
後悔。
後悔でしかない。愛していたはずなのに、目まぐるしく移り変わる世界に翻弄されて傷つけあってそして終わった。
今更、悔やんだところでどうにもならないことは分かっている。
「あれよりは、まし。ずっとまし。今度は祈れる、…祈れるだけだけど。」
彼がそこにいる。一度は思いを重ね合わせた彼が再び。隣に立つのは自分ではないけれど。
「好きだよルルーシュ。世界で一番。」
だから今日は彼の笑顔を見に行こう。これは、けじめだ。
*******
枢木スザクの家はごくごく平凡なサラリーマン家庭だった。父親について、昨今のリストラの煽りを何処吹く風にやり過ごして不安のない位置にいたことは恵まれていたのだろうし、母親に関しては“女は家庭”のいまや古びた観念としか云い様のない時代において専業主婦に収まりいつも家の中を整然と磨きたて“奥さん”と呼ばれることにも些かの不快も抱かない大人しい人だったのだ。絵に描いたような満ち足りた家庭だったのだろうか。一家の大黒柱としてその平均以上の生活水準を維持するために日夜仕事に明け暮れる父に、その帰りを従順に待つ妻。学校から帰ればすぐさま温かい食事が饗され装いにも娯楽にも何不自由なく我侭を通せた、親の庇護下にあった時代。
たぶん、何も気づかなければ幸せだったんだろうと一人息子のスザクは思う。気づいても幸せだったのかもしれない。国内国外問わず出張出張で長期の単身赴任も含め平均して一年の三分の二は家を空けている父にも、誰に見咎められることなく一人家庭を預かる母親にも、それぞれ息子のあずかり知らぬところで書類上の約束を交わした以外のパートナーはいたとして。中学に上る前のスザクにそれを悟らせる程にはぬかった二人とはいえ、互いに顔を合わせているうちには白々しいほど“普通の”夫婦を演じた一種厚顔ある意味強かな二人を前にして、スザクは表面上非の打ち所のない幸福な家庭ににこにこ笑っていればよかったのだ。思春期の彼にはひどく汚らわしく思われた二人の裏切りを当人達を前に暴いたところで、おそらく互いに承知の上でアンダーグラウンドの人間関係を育んでいた大人を前に少年は更なる落胆を誘われただけであろう。そうと知って口を噤んだわけではないことを後に成長したスザクがもやもや臆病者と自嘲すうことはあっても、結果として間違ってはいなかったと思い返して安堵するのだ。それで両親二人は安定しており、その確固として築かれた家庭という地盤の上に自分の幸せはあったのだから。
幸せだった、恵まれていた。
スザク少年は何度も呟いて言い聞かせたそれは既に過去形であった。父に母以外の女の影を見つけたとき母に父以外の男の匂いを感じたとき、家を飛び出すことも出来ないまだ子どもでしかなかったスザクは自分に言い聞かせたのだ。何も変わらない。これからも僕達は三人の家族だ。“今までどおり”。それはそれまで仮面を被り続けた偽りの証であって実際密告者が自らの口をその意思と不安と嫌悪から堅く閉ざしたことにより枢木家の安寧は保たれたのだ。それは少年が大人になって後も“変わることなく”。
今はそれぞれの思いの形を誰が縛ることも強制することも、当人の意思の前にはおよそ空虚な意味しか持たず、ありふれた正義感とか既成観念とか、こうあるべきといつの間にか刷り込まれている社会規範のようなものは守られてしかるべき時と打破されてなお看過されるのが、誰にとっても是と言わしめる時があるのだとの理解を以って彼はその顔に笑みを浮べて実家の敷居をまたぐ。口をつぐんで代わりに笑みを刷く理由を、社会に出て言葉ではなく肌で覚えこむ世の常というものを、それは成長とも諦めとも呼ぶことができるのであろう不文律の感覚に求める。十人十色、他人の自由は侵すべからず偏にそれは己がため。
だがまだ少年であったスザクにはそれができなかった。「仕方がないよね」と苦笑するだけの余裕はなかったしまだまだ彼の世界は狭かった。家庭に波風を立てない?見てみぬ振りが人のため?それを無意識下で甘受しこそすれ大手を振って許容するだけの強かさは少年にはまだなかった。だから彼はひっそりと笑い距離を置くことで裁断者の資格を自らの手から剥奪した。
僕は、あなた方の在り方に口を出す立場にない。
現在のスザクが過去の自分を振り返るに、それは正しい納得の仕方であったと思うのだ。親とはいえ他人、子とはいえどこまでも干渉されることには反抗してしかるべきと思うのならば。実際のところ、この世の終わりと悲嘆するにはチープで擦り切れた下世話な事情であって、ありふれた日常の綻びでしかなかったなと、世に出て様々目にすることになった人の営みを思えば苦笑で以って葬ることの出来る感傷でしかなかったのだ。そう、過去のものと余裕をもって眺めることができる今があることで、人は儚くもなければ存外逞しく図太く、それが本来の姿であると愛しく思うこともあるのだ。他者を排して一対一で向き合うべき関係に、夢や期待を抱く教え子たちにはまだそう見限ってほしくはないのだけれど。ただ、自分を悲劇のヒーローにもヒロインにも仕立てたところで得られるものは、安っぽい感傷と軽いはずなのにうっとおしく感じられる同情だけ、手にしたところで惨めさが増すだけだということを人生の先達として教えてやりたいだけなのだ。ペシミスティックに世界を塗り替えることは甘美である、けれどそれだけだと。
経験則として思うのだ。経験したからこそわかるのだ。
遠ざけ見下し突き放すことで自らの心の安定を図った、その若年にありがちな潔癖さの水面に、スザクは罪悪感と云う甘い毒を一滴落とし込むことで通り一遍の厭世観とは一線を画す諦念を抱いて育んだ。世界が悪い、と、そう思う前に自分を嘲るのだ。ここで間違っていけないのはスザクは聖人ではないただの凡庸でまずまず人並みの感覚を持った人間であり、リアリストを自負してロマンチストさながらの自己陶酔に耽るペシミストではなかったということだ。何も、自分が生きていることを罪だと嘆いていたわけではない。両親の暗黙の不義を嫌悪するその点においてはわが身の外に諦めの理由を置いたが、彼にとってより重大であったのはもっと形のないものであった。彼が意識化、無意識どちらにしろ他人と距離を取り互いに踏み込むことも踏み込ませることも細心の注意を以って回避したこと、それがもたらした虚しさは幸せになる資格はないのだと囁きかけた。お前には誰かと通じ合う幸福に身を浸してまどろむ資格はないのだと、それが結果であったのか原因であったのか最早判別がつかないほどにスザクにとっては当たり前のことだった。
だが、何故なのだろうと思うこともあるのだ。どうして『当たり前』と思うのか。スザクは自分が人並みに欲望も持ち合わせていれば幸福というひどく観念的なものに惹かれる人間であることを知っている。幸せに、なれるのならなりたい。でもなりたくない、なってはいけない。どうして自分はそう思う?自分は未だに未熟さゆえのペシミズムを引き摺っているのか、いやそうではないと思うのだ。
誰をして何をして、『資格』、それも幸せになるためのそれを与えられるのか剥奪されるのか。考えれば考えるほど滑稽で実のないものに思えてくる。ただ平和に生きていれば他人に判断されるいわれのないものだ。実に自然な欲求のままに幸せになりたいと望み、求めればいい。それは富であろう地位であろう己の為す行為の帰結であろう、そして、愛であろう。人それぞれの欲望など上げればきりがなくそもそ不可能であるといわざるを得ないが、およそ共通して平均して望まれるものは限られるのではないか。スザクも例に漏れない。求めて、それがどう結実したのかに違いがあるだけで。躊躇い戸惑い、それを振り払い手を伸ばしてもたらされたものに、彼は確かに歓喜したがそれは一時のものだった。繋ぎあった手は自然に離れ、再び目の前に現れたその人を求めることはもうできなかった。できなかった理由をスザクはそのとき同時に与えられたし、それをもう一度疑問など湧き上がる隙がないほどに深く腑に落とすため、久々の休日を休息にではなく気分はさながら決闘の滾りを滲ませてその人に会いに行くのだ。
きっと、探し続けた一つの答えが与えられることを予感しながら。
*******
こじんまりとした、おもちゃのような家だった。壁は白くて屋根は赤い。表札はかわいらしいカントリー風のプレートで、カタカナの躍るような字で“ランペルージ”と書いてある。門はなく、形ばかり、五歩も歩けば終わってしまう赤レンガの石畳に見上げれば花の模様をあしらった飾り窓。
『壁は真っ白で、綺麗な飾り窓のある------』
ふと過ぎった幼い声。
必死に笑って華やがせていた彼の---
「いらっしゃい。スザクさんね、お待ちしていたわ。」
記憶の底で響く音に耳を済ませていたら、絵の前で扉が開く気配も拾えなかったらしい。声を掛けられてはじめて、目の前に彼女が立っていることに気がついた。自然、目が細まる。
「よく、わかりましたね。僕は呼び鈴も鳴らさなかったのに。」
「お客様がいらしたときは、なんとなくわかるものよ。
あなたが今日訪ねて来てくれることは、わかっていたのだし。」
そう、約束した。電話で彼に、今日行くからと。君に会いに行くからと。
「そうですね。ルルーシュはいますか?」
「リビングで待っているわよ。ごめんなさいね。本当だったらルルがお出迎えしなくてはならないのに、ナナリーが捕まえて放さないものだから。」
会ったのは一度だけ。紹介はされたのだけれど遠慮のない口ぶりだ。ナナリーは二人の娘。普通はもう一度くらい名乗りあって、『娘が』と切り出すものではないだろうか。持って回った言い方を好む日本人のやり取りは性に合わない?違う。彼女はわかって言っている。
どうぞお入りになって。にこやかに招き入れてくれるのに頭を下げながら、入った瞬間に光が降りてくる家の中にはっと息を飲む。吹き抜けの天井、高い場所に大きくとられた窓から燦々と昼下がりの日差しが差し込んでくるのだ。
「天井が高いと、子どもの情操によい影響があるとか。」
「暗くて頭が押さえつけられるようなおうちじゃ、誰だって悲しい気持ちになってしまうわ。明るくて温かい家がいちばんでしょう。」
にっこり振り返って言われる言葉に、またそうですねと頷いて。あの家は…蔵は。暗くて、天井が低くてひんやりしていたなと思い出す。
ルルーシュ、あそこは悲しかった?
*******
それは記憶であった。覚えのない『記憶』であった。ぼんやりとして掴みどころがなく、常識と照らし合わせて想像、妄想の類と断じて非はない『記憶』であった。
人はそれを『前世』と呼ぶのだろうか。
枢木スザクは幼い頃から正体不明の影に取り憑かれていた。はじめは、何を囁くでもなく害するでもなく、ただどんよりと重苦しく時に希薄に気配を潜ませて彼を取り巻いているだけだった。不愉快に思うことはあってもそれを口にしたところで理解してもらえず解決も望めないことを早々に悟ったスザクは、無視あるいは自ら歩み寄り、共に在ることが自然で寧ろ慕わしさすら覚えるほどにうまく共存を図ってきた。仕方がないよな、そこにいたいのならいればいい。大人しくしているなら我慢してやるさ。
だがそれは次第に明確な形を持ってスザクの前に現れ始めたのだ。『幸せになる資格がない』。その囁きは影が発した。既に両親の事情で物を斜めに見る素地を完成させていたスザクにしてとってはすんなり馴染む囁きだった。
影は、多く夢という形を取り、彼に身に覚えのない『記憶』を見せ始めた。今いる世界とよく似ているけれど、戦争という非日常に彩られて誰も彼もが安寧を奪い去られてゆく世界。子どもが憎悪に心を尖らせ、怯えに瞳を揺らし無垢であるべきてのひらすら親の血に染め。驚くべきことにその子どもはスザクであった。姿かたちがそれを知らしめ、それ以上に直感した。あれは僕だ。
乱暴に過ぎるように見受けられたその子ども、スザクが己だと認識しつつ夜毎、時には白昼夢として追い続けた子どもは、夢であるが故か現実感に乏しい劇的な人生を歩み、夢であるはずなのに生々しい感覚をスザクに与えて目が覚めれば消えてゆく。消えてゆくのに記憶に残る。現実に知覚し経験として蓄積されてゆく通常のそれと同じ重さでもってスザクの脳裏に焼きついた。これは、夢なのか。
ひどく疲れる夢だった。寝ている間にもう一つの現実を体験しているようなリアルな夢。気味が悪く後味も悪い。物心つく前に何か恐ろしい体験でもしていたのだろうか、それとも自分には妄想癖があって押さえ込むほどもできないほどに己の作り出した世界に埋没している?
違う。
振り払うことも出来ない悪夢と呼ぶにふさわしい影の原因をすべからく己のせいにすることは苦痛であった。結果として若者にありがちでけれど不似合いな諦念といった負の感情にのしかかられるのは面白くない。だがどこかで納得している自分がいる。たかが夢の世界で自分が何をしようと関係ない、そう思うことができなかった。眠りの淵で繰り広げられる世界は悲劇に始まり、水面にきらめく光のように儚く気まぐれで、けれど確かな幸福を織り込みながら収束してゆく。悲劇へと。終わってみなければ悲劇も喜劇もわからないだろうと云ったのは誰であったか、それは確かに虚無という虚しさで以って観覧者であり主演者でもあるスザクに君臨した。夢の中の“枢木スザク”は確かに、出会ったはずのきらめきを塗りつぶす、真っ赤な血に染まる世界を生きてそして死んだ。
その、中心に。
たった一人、立ち続けた者がいた。
*******
「スザク!よく来てくれたな。」
ソファに腰掛けたまま、手だけ挙げてルルーシュが迎えてくれた。
「こんにちは、スザクお兄さん。」
ナナリーがぺこりと頭を下げて声を掛けてくれる。お兄さんか。君の特権だと思っていたのに、とても不思議な感じがするよ。
「こんにちは。ナナリーちゃん、ルルーシュの似顔絵を描いているの?」
小振りのスケッチブックを抱えて、娘が父親の顔をじっと見つめてはクレヨンを動かしている。その表情は一生懸命で、これは確かに動けないなぁと、座ったまま挨拶を寄越したことを詫びるように眉尻を下げるルルーシュに口元を緩めてみせる。
「今日は『父の日』ですから、パパのお顔を描いているんです。」
「ルルーシュはモデルとして申し分ないよねぇ。うまいじゃないか。」
「はい!パパはとってもかっこいいんです!」「当たり前だ。ナナリーはマリアに似てとても絵が上手なんだ。」
得意げに返された言葉が実に子ばかに親ばかだ。変わっていないと思うのは、遠い記憶の世界の二人を、目の前の二人に重ねるからだ。長い脚を組んで様になるルルーシュも、信頼と愛情を込めてそれを見つめるナナリーも。ああ本当に同じ色だと、綺麗な紫の瞳を見て思う。君たちの距離は兄と妹から父と娘へ、縮まったのだろうか、それともそのまま?遠くなったとは思わないのだ。この二人は一緒にいてそれが自然なのだと思うから。
「スザクさん。ルルとナナリーはもう少しかかると思うの。こちらで私とお話しませんか。」
ここで話をすると、一生懸命なナナリーの気を散らしてしまうという気遣いらしい。もちろん嫌はない。見ると上半分の輪郭は出来上がっている。一時間もかからないだろう。
「悪いな、スザク。ちょっとマリアとおしゃべりしていてくれ。あ、余計なことは言うなよ。」
「余計なことってなにかなぁ? あ、マリアさん。僕素直なことで有名なんです。旦那さんの大学生時代のことなら何でもお話しますよ。」
あら、それは楽しみだわと微笑む彼女に苦笑で見送るルルーシュ。平和な場所だった。
*******
スザクが自分に纏わりつく影、それの見せる悪夢(ナイトメア)に与えた位置づけは前世であった。すなわちこれはどこか別の世界で自分が経験した一生を正体不明の夢魔に見せられているのだろうと。追体験と呼んで差支えがないほど、身に迫る臨場感は普通の夢とは違っていた。だがそれは他人と比較できるものではなかったし、“普通”とはスザク自身の経験に基づく判断であって一般論として通用するものではなかった。そしてそれを『前世』なりなんなり、現実に存在したはずの『枢木スザク』の人生であり空想の産物でないとの考えに至るまでは、当然躊躇いも戸惑いもあったのだ。スザクに、これはお前の過去であると認識させただ過去であると忘却するのを許さなかったのは、ある人物との出会いであった。
血塗られた世界の中心で、血塗られた瞳を瞬きもせず佇んでいた彼との邂逅だった。
まだ一学年時の大学の、ゼミ講義だ。専門科目の履修に専念できるのは二年次からで、入学したてのスザクはまだ一般教養の単位を取得するために教養学部のキャンパスにいた。受験生活を終えて親元を離れた開放感と新しい環境に、皆浮き足立ってざわめいていた。学部ごとに複数のキャンパスを展開している総合大学だったが、教養学部だけでもその敷地は広い。迷わず目的の教室に向かわなければ十分の休憩時間内に辿り着けない。専門科目と一般教養科目が連続していて、直近の講義棟から何本も横断歩道を越えて走ってくる文系学部の学生は気の毒だとも思うのだが、理学部のスザクは飛び地キャンパスになるから、時間割を都合してもらえる一年の内に全ての科目の単位を揃えておかなければならない。出席も考慮に入れることの多い一般教養は遅刻も怖いのだった。
「やっばいッ、講義室の変更はもっと早く教えてくれよ!」
受講生の多寡で授業に使う教室を調整することはよくあることだ、二コマ目までは掲示板をチェックするようにと注意は受けていたのだからたとえ前日に変更が告げられていようとスザクには文句は言えないのだ。面倒になって初回時の場所に行ってしまったスザクに非がある。少し早めに行っていたから間違いに気づくのも早くまだ本鈴は聞こえてこないけれど、まばらになった学生の流れは空きコマを潰すべく図書館やカフェテリアに向かうものばかりだった。ようやく辿り着いた掲示板にはずらりと連絡事項が記されていて中々目的の情報を見つけられない。悪態を差し挟みつつ講義科目名を呟くスザクの耳に、低くよく通る声が届いた。
「『21世紀のマテリアル・サイエンス』?F棟の302だ。人数多くて階段教室に格上げされたらしいぞ。」
落ち着いた声だった。F棟?いちばん外れだ。走ってももう間に合わない。
ならいいか。振り向いて、この、声の持ち主の顔を拝む時間を持っても。君は急がなくていいのかいと尋ねても。名前を、尋ねたって。
「ルルーシュ・ランペルージ。両親はフランス人だったけど、生まれも育ちも日本だよ。よろしく。」
差し出された手を握って、ほんの少し、立ち尽くしてしまっても。いいだろう。
訊いてみるとルルーシュも同じ講義を選択していたらしくなら急がないとと、握手を求められたときとは打って変わって躊躇いなく、腕を取って走り出したスザクに黙ってついてきた。初対面の相手、それも同性の二十歳に近い男同士がお手て繋いで駆け足はないだろう。だが駆け込んだ教室で二回目の顔合わせになるメンバーのくすくす笑いに釣られるように、赤くなるスザクの隣でルルーシュは微笑んでいた。すみません、道に迷ってと頭を下げれば、退館間近の老教授は昨日のことだったからね、すまなかったよと穏やかに着席を勧めてくれた。ルルーシュは前回休んだらしくこれが初回になるため、二言三言連絡事項を言い渡されている。先に教室を見回して、スザクは顔見知りの学生のそばの一人分の空席ではなく、外れの、二人分の空席をの片方を選んだ。ほかにも一人分ならちらほらと空きはある。どれも隣がいる。ルルーシュはどうするだろう。
「ここ、いいか。」
「…どうぞ。さっきは走ちゃってごめんね。」
「俺も急がなきゃならなかったんだから助かったよ。」
一人で全力疾走って、気恥ずかしいだろ。
そう言って笑った顔が初めて見るようではっと息を飲んだスザクは、もう夢の中の彼と、目の前にいる彼を同視していた。そして夢を過去と定義した。
だって、彼は彼なんだ。
ルルーシュ・ランペルージはマイペースな人間だった。人に合わせる器用さは持ち合わせているが群れることも特定の人間とつるむ事もなかった。どこかのんびりとした風情を漂わせて、黙って一人微笑んでいるのに存在感だけは強く放つ男だった。外国人は珍しくないが、彼の容姿は飛びぬけて美しかったからそれだけで人目を引く。すらりと伸びた手足に切れ長の瞳。いつも穏やかな微笑を浮べている彼の隣には、よく薄茶のふわふわした髪をした人懐こい男がいた。つるんでいるわけではない。見かければ手を挙げることもなく自然とそばに寄るだけで、携帯電話の番号は交換していたが使用したことはなく。時間を決めて待ち合わせたことも、教室にどちらかが姿を現したとして隣の空席を示すこともなく。ちらりと目を合わせてそれだけで寄り添うのだ。約束はいらなかった。断らなくとも共にいられることが嬉しかった。ふらりと互いの家に立ち寄りふらりと立ち去り、学年が上って一緒の講義に出ることがなくなってもそれは変わらなかった。遠慮がなく気安い付き合い。交わした言葉は他愛無く、見えている以上のことを、詮索することもなかったのだけれど。
あれは三年の初夏の頃だったか。院に進むか進まないかで悩んでいた時期、確か今日は二人とも講義のない日だったなと、何となく、いつものようにルルーシュのアパートを訪ねると黒いスーツを着込んだ彼がいた。
「ルルーシュ、どこか行くの?」
出直したほうがいいか、気にせず上りこんで帰りを待てばいいか。思案していると知人の墓参りと返事が聞こえた。
「墓前参り?ここから近いの?」
「電車で五、六駅かな。命日なんだ。育ててくれた人だから。」
片道一時間といったところか。もう大分暑さも厳しくなってきたこの季節、しっかりと黒いリクルートスーツにネクタイを締めているところを見ると、几帳面なルルーシュにしても大事な人なのだろうと思うのだ。両親は早くに亡くし、きょうだいもいないことは何の折であったか聞いていた。だからじゃあどうしていたのと尋ねることはしなかった。妹、いないのかと思っただけだった。
「面白いことはないと思うけど。」
「いいじゃん。僕最近ちっちゃいお友だちばっかりと付き合っていてさー。顕微鏡とにらめっこも疲れちゃったんだよね。」
「サンダルでも履いていたら置いてきたのにな。残念。」
スニーカーの足元を見てにやりと笑う。ジーンズに生成りのシャツもどうかと思うが、伺いを立てることなく一緒にアパートを出て隣に並んだスザクを咎めなかったルルーシュは、自身の取り決めに他人を巻き込むことはしない性分だった。スザクも倣って、きつい日差しの中黒ずくめ、おまけに大輪の白百合を抱えて歩くルルーシュにヒュウとおどけて見せた。
「カサブランカ?花言葉は高貴とか、威厳だったっけか。」
「よく知ってるな。女遊びの程が窺えるぞ。また年上のお姉様に可愛がってもらったか。」
「違うよ。最近は真面目に将来について悩んでいるんです。花は母親が好きだからさ。フラワーアレンジメントや生け花教室なんて通いづめ。そう言うルルーシュはどうなの?こっちって、外国人墓地があるよね。そんなおっきい花束でしかも生花なんて、怒られない?」
遠回りになる。そこに眠っているのは誰かなんて、訊けるはずがない。なんとなく、女性だろうと思ってしまうのは勘か、それとも妄想か。
「一輪だけ置いて後は持ち帰るよ。この陽気じゃすぐに萎れてしまうからな。そういう約束だっ。墓の周りを汚すなって。」
ああ、彼女は面倒くさがりだったんだけどな。横のものを縦にもしない。
そう振り返って笑うルルーシュに、妙な焦りを感じた。
聞いたことがあるよ、その台詞。
墓標に目をやらない自信がなかったから、少し離れたところでルルーシュを待った。詮索はしたくない。彼のこの世界での過去に誰がいたとしても構わない。また出会えたことを奇跡と呼んで満足することはできるのだ。満足しなければならない。今は二人、平和な世界に生きている。僕達は、こんなにも近く。だから振り払え。
「お前が、お前さえいなければッ!」
「私が憎いか。大事な主の命を奪った仇だものな?」
「…俺が殺す。お前は俺が!!」
「躊躇うことはないさ。私ももう迷いはしない。スザク、お前と戦える。俺たちは、友達だからなッ!!」
「…ッ、違う、消えろ。」
消えてくれ。今は平和だ。僕達は憎み合う必要などない。殺し合う理由はありはしない。憎悪に怨嗟に身を焼いて、友であった時間を苦痛に塗り替えることはしなくていい。優しい時間を幻と切り捨てたのは彼が先だったのかそれとも自分か。
「僕だ…、きっと僕だった。」
目の前の喪失に全ての思考を奪われて、復讐に身を委ねるしか術はなかった。生きるための。
生きたかったのだ。己の生、大切な人も守れなかった己の生にも意味があるのだと証明するために。仮面を被り立ちはだかった彼を倒す。守れなかったせめてもの償いに彼を殺す、殺せる。そして殺せた。
「 」
最期の瞬間、彼はなんと言ったのだったか---
「悪い、待たせたな。」
「勝手についてきたんだから謝らないでよ。」
それもそうだなと笑う彼に、同じ笑顔を返して。他愛もない軽口を叩いて隣に並べばいいのだ。今は平和だ。彼は廃嫡の皇子でもなく血を浴びた反逆者でもなく。自分は亡国の徒ではなく主を奪われた復讐の騎士ではなく。ただの学生で、将来の自分に悩むありふれた日常を満喫していて。人並みの幸せを享受していてこれからも幸せに
『お前に、幸せになる資格などない。』
「ッ、」
誰の声なんだ。頭に響く。彼の隣で戦った赤毛の少女か、彼の死を嘆いた金髪の少女か。遣る瀬無さに顔を歪ませた彼の悪友か彼を慕い結果彼を忘れた明るい少女か。彼の最愛の妹か死してなお彼を見守っていたのかもしれない彼の母親か。それとも拘束着の少女か。おそらく最後までともに在った存在。彼女によって自分たちの道は分かたれたのだろうか。そして彼女はこの世界でも彼を奪うのか?
「---ク、スザク!どうしたんだ?気分でも悪いか?日射病かな…少し涼しいところで休んだほうがいいかもしれない。」
違う。
気遣わしげに覗き込んでくる目を見ながら言い聞かせる。
ルルーシュは彼女のものだったわけではないし、彼女はきっとこの世界でも過去の人間でルルーシュは過去に住まう人ではないのだ。あの世界で彼と道をたがえた分岐点にいて戦場へと手を引いた存在であるとの、それは自分の妄想だ。誤まった想像だ。あの世界で、枢木スザクとルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの生きる道は場所は紡ぐ祈りは、とっくの昔に擦れ違っていたのだ。本来の自分であることが許されなかった。ゆっくり歩み立ち止まって手を差し伸べあう時間など与えられなかった。運命に翻弄されるままに目の前の感情に身を委ねることしかできなかった。望んだ在り方ではなかったのだ。
だって、ほら。平和な世界に生きる彼はこんなにも静かな瞳をしている。激情など露も見えない凪いだ紫。
「…大丈夫だから、早く帰ろう。ほら、夕立が来そうな空だ…。」
ただ彼と自分という二点だけで繋がっていた遠い過去に、もう一つ、昼間でさえ一番嫌いな場面をフラッシュバックさせる欠片を見つけたとしても。彼を彼として見ている自分がこうまで怯えるのは滑稽でしかないだろう?そっと頬に触れてきたルルーシュのてのひらから伝わる体温が、ひどく鼓動を荒立てる。滑稽だ。僕は一体何に心を揺らしている?
夕立が、耳を突く音を立てて降り始めた。
ここからならスザクのアパートの方が近いからと、二人で雨の中を駆け出した。あいにくコンビニの一軒も見当たらない辺鄙なところで散々に濡れてしまったから、大通りに出て傘の一本や二本簡単に購められる場所についても二人は滴る雨雫を払いながら走り続けた。帰り着き、玄関口で佇むルルーシュにスザクがバスタオルを放り投げる。一言礼を言い、ざっと全身の水気をふき取ったルルーシュがふと顔を上げると、スザクが自分も手に持ったタオルをぼんやりとぶらさげていた。
「拭けよ。風邪ひくぞ。」
「…うん。」
「拭けって。」
「……うん。」
ルルーシュは溜め息をつき、上返事で動かないスザクの腕からタオルをとってばさりと体を覆った。そのままわしわしと頭を拭いていく。スザクは何も言わずに俯いていた。すぐ近く、触れている人の存在に感覚を研ぎ澄ませて息を潜めていた。
仕上げとばかり、乱暴に顔を拭われてわぷっと口をふさがれる。そのままルルーシュは離れてしまった。夜は布でもかけて暗くして置けよと、聞こえた声が遠くなる。もう帰るのか?
「…スザクさーん?」
「なに。」
「いや、ちょっとこの腕を何とかしてほしいなって思うんですけど。」
「ああ、困った腕だね。ルルーシュが帰れないじゃないか。」
「持ち主が他人事だからだめなんだよな。」
苦笑を滲ませて吐かれた溜め息と、くしゃりと、今度はてのひらで頭を撫でられる感触。腰に腕を回して抱きついた白いワイシャツがじっとりと雨で濡れている。ズボンも、上着も、タオルで水気をふき取ったくらいで乾くはずがない。外は先ほどの勢いはないものの、今度はしとしとと小雨に変わって降り続けている。
「…ッ!? スザッ、」
「今日は泊まりなよ。」
「どうしたんだよ。お前おかしいぞ。」
引き倒して、押しかかった下、ルルーシュが無表情で言った。こんな顔は見たくない。笑っていてよ。…もう。
「…聞く気なしか?スザクー?」
「うるさいから塞ぐとか、黙らせたいから首を絞めるとか、絶対嫌だ。」
「で、無視?」
「…だめ?」
「どうしようかな。普通はだめって言うんだろうな。当たり前だよな。」
「ルルーシュ。」
答えがほしかったのだ。ルルーシュの口から許してほしかった。いいよと、おいでと。男同士だとか、それまでの、互いの人間関係だとか。そんな面倒なことを考える余裕はなかったんだ。ただ帰らなくてほしくて手を伸ばしたら、もっともっとと思ってしまっただけで。それを許してほしかっただけで。…なんて我侭。だって、だって。
遠い夢の中で触れることのできなかった君がここにいる。ここにいるんだ。温かい体で優しい目をして触れ合える近さで君が。
重なる。どうして。仮面を被ったあの世界の君のように、温度の低い瞳が背筋を凍らせる。笑って。ここは違う世界だ、君も僕も何をも憎まずに生きていけるはずの。君は、本当の君は静かで穏やかに笑う人で。綺麗な綺麗な・・・
ああ、それなら僕が触れてはいけない---
「何を考えている?スザク。」
「…いや、ごめん。どうかしていた。服貸すよ。シャワー浴びてから帰って。」
「どうも。その前にこっち向けよ。」
「今は嫌だよ。みっともない顔してる。」
覆い被さっていた体を起こして膝を抱える。ルルーシュも上体を起こす気配がする。白い指先が近づいてくる。図書館に篭って勉強ばかりしている、日に焼けない真っ白な・・・
「…触らないで。」
指が触れる。俯いた頬に冷たい体温。・・・冷たい。
「嫌だよ、ルルーシュ。いやだ。ねぇどうして?」
「どうしてって、どうして?」
「君はこの世界で笑っていればいいんだ。」
「うん?」
「作り笑いじゃなくて。」
「ちゃんと本当に笑っているぞ。」
「そうだ。ずっと。」
「機嫌の悪いときには無理だ。疲れているときも。」
「今、疲れているの?」
「お前の方がひどい顔してる。」
はぐらかしているのはお互い様だ。ルルーシュは僕の言っていることの意味が分からないし、僕は望む答えが返らなくて苛々している。ねえルルーシュ、この世界で僕と一緒に生きてくれると約束して。もう離れずにずっと一緒に。今は知らないこともたくさんあるけど、これからちゃんと聞いていくよ、そして話すから。もう時間がないなんて言わなくていい。立ち止まって向かい合う時間はたっぷりあるんだ。
ルルーシュ、僕はこの世界で、君だけを思って生きることが、
『お前に、幸せになる資格などない。』
どうしてッ!
誰の声、誰が僕を責める!?幸せになりたい、どうし
てその邪魔をする!!一人は嫌なんだ、もう一人は嫌なんだ!あの世界で僕は一人ぼっちで、…ああ、分かっているさ。全部全部俺のせいだ。自分で一人だと思い込んで自分で一人になって。差し伸べられていた手にも気づかずに激情に駆られて君を殺したッ!!
…君も、独りだったと知ることもなく。傍観者としての自分があの血塗られた世界を俯瞰する。そして知る。憎んだ君は誰に縋ることも許しを請うこともせず死んでいった。自分を悪だと嗤って死んでいった。最期にぽつりと呟いて。最期だけ、本当の君だと僕は知っている。だから僕はここで君と一つに・・・
*******
「…それで、あなたは何を告白したいのかしら。」
「別に。僕は僕と一緒にいたルルーシュしか知らないし、話すことができるのも僕の色眼鏡を介してで。信じるのも信じないのもあなたの自由です。」
ふぅと溜め息をつく音が聞こえる。とりとめもなく話してしまった。ほとんどが自分の話だったと気づいたのは話し終えてからだ。黙って聞いてくれた彼の一番の一人は、夫と近づきすぎた過去を持つ男を前に敵意の欠片も浮べてはいない。
「逃げね。あなたは私に何か言ってほしくて話したくせに、全部放り出して耳を塞ぐの?」
「そうは言っていません。僕はただ、突拍子もない話をしてしまったなと反省しているんです。感傷ですよ。忘れてくれていい。」
「そう。ならそうするけど、あなたまだ話し足りない顔をしているわよ。ルルとはどうして別れたの。」
直球。茶番と切捨てはしないのか、付き合ってくれるつもりで?彼女なら一人の男の妄想と笑って済ませることはないと、思っていたのは確かだけれど。ヒステリックに嫉妬を露わにすることも、今彼の隣にいるのは自分だと悦にいることも、しないと分かっていた。だってこの人はこの世界のルルーシュが選んだ人で、あの世界のルルーシュが、仮面を、被るその理由になった人で。
…そうだ。あの緑の髪の少女ではない。あの少女はただのきっかけでしかなく、はじまりはこの人の喪失だったのだ。ルルーシュが戦場に立ち、戦場を生み出したのは。
「あれ。僕は別にルルーシュと付き合っていたとは言っていませんよ。」
「随分ルルのこと好いてくれているようだけど。だったら片思いだったと言っているようで悲しくならない?」
「…彼は綺麗でしたよ。」
「私のルルだもの。当然。」
堪えていない。こっちにはダメージばかりだ。立て直そう。
「ルルーシュ、フランスに渡ってからもお墓参りしていたんですか?」
何の話か分かるか?分かったとして彼女の存在は、どう映るのだろう。僕だって知りはしないが。
「ああ。ルルの家族だった方ね。毎年、こちらに来ていたわよ。アバンギャルドのアーティストだった人。今はもうなくなってしまったけれど、小さなギャラリーを持って固定ファンもいらしたとか。」
奔放な方で、ルルにおうちのことは全部任せて飛び回っていたみたい。ピザが好物だったとか。ルルの得意料理よ。
続ける口調は軽やかなものだ。故人は超えられないと言うけれど、ルルーシュにとってあの白い墓の下に眠る女性は、家族であった人なのだ。恋人とか、そんな下世話な想像は心の中で彼に謝る。
「ルルーシュは、よく気がつく男ですからね。」
「ええ。真面目で神経の細い人。かわいいと思わない?」
余裕だ。ほんの少しの感情の揺れも見えない。確かに、ルルーシュはパートナーを不安にさせるような男じゃないけれど。
「マリアさんて、もしかして年上ですか?ルルーシュよりも?」
「そ。三つ上よ。姉さん女房って言うのかしら?」
なるほど。大した差ではないが年下と言われるよりはよほどしっくり来る。ルルーシュが寄りかかっても倒れない強さを持った---
「…どうして別れたかという話でしたね。
あの日、寝転がりながら話をしました。カサブランカの香りが狭いワンルームにむせ返るようで、僕は夢うつつで彼の顔を見つめていた---」
*******
濡れそぼった服を脱ぎ散らかして、一つしかないベッドに二人並んで横になっていた。静かな空間に落ち着いた息遣い。それはいつもの二人の日常であったのだけれど、充満する花の香りに少し湿ったシーツの感触が常とは違う空気を実感させる。寝返りを打って視界に入ったルルーシュの肌の白さに、ああこの静けさは日常ではなくただ時間の経過がもたらしたものだと思うのだ。うつ伏せに枕を抱いている、血色に色づいていたはずの滑らかな背に手を伸ばしてふと躊躇う。
「ルルーシュ。」
「…なんだ?」
「謝ったほうがいい?」
「聞くなよ。最低。」
「じゃあ、ごめん。」
「好きに受け取らせてもらうよ。…落ち着いたか。」
ルルーシュが顔を上げて覗き込んできた。少し潤んでいるけれど、濁ることのない綺麗な紫色だ。吸い込まれるように唇を寄せて、そのままルルーシュの腕が僕の頭に回った。胸に抱きこまれて顔が見えない。
「…キスできないじゃないか。」
「さっきたくさんしただろ。スザク、お前は何に怯えていたんだ?俺もお前もここにいるのに、一体誰を見ていたんだ?」
心臓が撥ねる。身じろぎで誤魔化せただろうか。トクトクと規則正しい音を立てるルルーシュの心臓が、薄めの胸郭の向こうに響いている。これと、同じ速さで脈打てばいいものを。
「…ルルーシュはさ。僕と出会ったとき、何も感じなかった?何も思い出さなかった?何か、不思議な夢を見ることは?」
「運命とか言ってほしいのか?」
「そんなロマンチストじゃないよ。もっとどろどろしておぞましいものだ。」
「なんだよ。スザクお前、夢で見た俺にストーカーまがいの劣情でも抱いたか。」
「ルルーシュ、きみさぁ…。たまに言葉が容赦ないよね。もっと選んだら。彼女できないよ。」
「お前はもっと素直にならないと結婚できないぞ。」
「どうして?」
「このかっこつけが。」
「ルルーシュに言われたくない。」
「スザク、俺のこと本気じゃないだろ。」
「…どうしてそう思うの?」
腕を解いて起き上がる。見下ろした先でアメジストの瞳が静かに瞬いていた。
「だって、お前ずっと苦しそうだったぞ。泣きそうな顔して。」
感無量だったんだよとか、嬉しすぎてとか。言えばいいのにいつも女の人たちを相手にしているときにはすらすら出てくる言葉がどこかへ行ってしまった。嬉しかったんだよ、本当だ。蹲った僕の肩を抱いてくれた君が温かくて。合わせた瞳が優しくて。夢中で手を伸ばして掴んだものは確かに幸せだったと僕は言えるよ。君と一つになれて泣きそうなくらい幸せだった。
「…。」
「なぁ、スザク。寂しかったら誰かの手を取ればいい。お前と一緒に生きてくれる人が必ずいるよ。お前は決して一人じゃない。」
「簡単に、言うね。君は一緒にいてくれないの。一緒に生きてくれないの。 …この、カサブランカの花言葉はもう一つあるんだ。知ってる?」
腕を伸ばせば、床の上にそっと転がした花束に手が届く。一輪抜き取ってふらりと揺らせば、花粉は取り除かれているけれど滴る花蜜から濃厚な香りが立ち上る。
「『雄大な愛』?」
「君はそれを持っていると思っていた。」
「買いかぶるなよ。俺は普通の人間だ。聖母じゃない。」
「そう。どちらかと言えばセント・マリアじゃなくてブラッディ・メアリー。」
「…なんで?男なんだけど、俺。」
憮然とした表情に笑いがこみ上げる。そんな顔をしているとあの君とこの君は同じ魂の持ち主なんだと思うんだ。あの、深紅の瞳で世界を睥睨していた反逆者の君。僕は最後まで君を許せなかったんだ。幸運だとはあの僕もこの僕も思わなかったけれど、戦場ではなく自宅のベッドの上で死ぬことが出来た僕は傍から見たら上等な一生だったんだろう。兵士としてはそこそこの出世もして、人並みに穏やかな死に際を約束されて。戦火の燻る瓦礫の山で、埃と血に塗れて息を引き取った君を、けれど僕は羨ましいと思うのだけど。君は最後の最期、仮面を外して笑って逝ったのだから。
*******
「何て、言ったの?あなたを捕らえて放さないルルーシュは。」
スザクはふ、と息をついて口を開いた。
「『ごめん』と。次いで『幸せに』。最期に『さようなら』。」
「あなたたち、恨みつらみのまま終わったわけではないじゃない。何をそう悲観しているの?」
淡々と返すマリアの声に、さて、どうしてだろうとスザクは何度目になるかわからない疑問を吟味する。
「僕は、自分が彼の立場だったら同じことを言えなかっただろうと思うんです。」
「あなたが“ゼロ”だったら?」
「“ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア”だったらです。敵対していて、死に往こうとしていた彼を前に僕は表情一つ動かなかった。どうせ死ぬ人間だからと、せめて幼馴染の由でもって抱いてやることもしなかった。彼は硬くて冷たい瓦礫に頭を預けて、それでも笑って逝ったんだ。」
自嘲の笑みでもなく、復讐に駆られた幼馴染を嗤うでもなく。落とすように、安堵するように、…すまなそうに瞳を綻ばせて、それが最期だった。
「羨ましいのね。」
「…何が?」
「“ルルーシュ”が憎悪の連鎖から解放されたことが。あなたはきっと、死ぬまで無表情だったんじゃないかしら?」
「…まぁ、愉快に余生を過ごしたわけではありません。」
慰めるように目の前で微笑まれて、居心地が悪くて目を逸らす。そうさ、羨ましかったんだ。一歩距離をおいて眺めてみると、憎しみでいっぱいだったあの自分は見落としていたものも多かったんだ。ほんの少し、彼と過ごした穏やかな時間を胸に残しておくことが出来ればその余裕があれば、きっと死に往く彼に僅かでも安らぎを与えることが出来たのではないかと悔やまれる。親友の死に涙を浮べることだって、できたはずだと今なら強く思うのに。どうしてあのとき、僕は。
「当たり前よ。あなた向こうでルルーシュのこと何も知らなかったのだから。」
心を読んだようにマリアが言葉をすべりこませた。責めるでもなく極自然な声音で。
「何もって…そりゃ、話し合う手間を省きましたけど。」
決まりが悪い。お互い様だけれど、ここにルルーシュはいないから、スザク一人で反論しなくてはならない。…無理だ。
「人の痛みなんて、その人しか分からないわ。あなた私のこと、好きでも嫌いでもないでしょう?」
「どちらかといえば、嫌いです。」
「…はっきり言うわね。まあいいわ。嫌いなら嫌いで、ね、分かるでしょう?」
しばらく考え込む。そうか。
「“ルルーシュ”はあなたのこと、大好きだったんですね。ナナリーのことも大事だったけど、あなたは特別だった。奪った世界が許せなかった。」
照れるでもなくにっこりと笑みを零す目の前の女を見てなんだと思う。
結局、あの世界の“ルルーシュ”が立ち上がった理由など、実に彼の主観に基づいたものであって他人には理解は出来ても納得はしえないもので。実行に移せるかは更に確率を下げて。母親を殺されて、妹を傷付けられて。許せなかった。その思いだけで魔女の手を取り仮面を被り、数え切れない返り血を浴びて戦った。正義という大義名分を掲げていたけれどそれはポーズに始まりポーズに終わったんだ。確かに一面で彼の真っ直ぐな想いが腐敗した世界を断罪したのだろうが、最も強く彼を突き動かしたのは怒りであり悲しみだった。よくも、母と妹を。
「愛されて、いますねぇ…。羨ましいな。」
ぽろりと零れる。あの世界で彼は親友だったけれど、この世界で惹かれて已まなかったのは、それはきっと僕が彼を愛していたからなんだ。それを自覚してしまった今は、彼を手にかけて後悔の一つもしなかった自分が許せなくて。・・・ああ、だからか。
「あの『声』は、僕の、声だったのかな。」
『幸せになる資格はない』
「私じゃないわ。そしてナナリーでも、ましてルルでもない。それだけ教えてあげる。」
まったく、この人はどこまで本気で言っているの分からない。さっきからあちらとこちら、当たり前のように会話の土台にしてしまっているのだけれど。
「じゃあ、僕だ。僕が自分を許せなくて知らず自戒の言葉を繰り返していたんですね。あはは、何だか独り芝居みたいで恥ずかしいな。」
「安心なさい。既にあなた妄想癖があるメルヘンな人だって私思っているわ。」
「…きついですね。あれですか、夫と寝た男はやはり面白くありませんか。」
「いいえ?だってさっきあなた面と向かって言ったじゃない。嫌いだって。お返しよ。」
「それは失礼いたしました。以後気を付けましょう。ルルーシュとナナリーのお絵かきも終わったようだし。」
耳を澄ませばルルーシュがナナリーを誉める声が聞こえてくる。懐かしい、甘ったるい声だ。変わっていない。そして、それを聞く僕は。
「ほぅ。スザクお前、理系のくせに化学が嫌いで受験も物理と生物で乗り切ったやつが、高校生に教えているんだって?」
ルルーシュがおかしそうに言った。近況を話していて、自然職場の話になったのだ。
「仕方ないでしょー。理科系三科目は全部教えられることになってるんだから。もう必死に予習してます。」
「まあ正規の先生が補充されるまでだろ。お前ならできるさ。」
「あら、ルルなんだか口先だけの響きだったわ、今の。」
「だってな、マリア。スザクには計算計算ばっかりのものは合わないんだな。こいつ日がな一日顕微鏡覗き込んでゾウリムシに名前つけて可愛がっていたんだぞ。ぞわっとしたな。『アーサー』なんて呼んで『ご飯の時間ですよー』とだな、」
「いいでしょもー。ルルーシュなんて運動嫌いで、スポーツ選択すれば授業出るだけで単位もらえるのにあえての保健体育だよ、信じらんない。」
「お前だってそうだったくせに。」
「僕は教員免許とるために仕方なかったんです。それよりもさ、僕いまボルボックスを飼いたいんだけど。中々いないんだよね。ルルーシュさ、ここらで田んぼや小川知らない?綺麗なやつ。」
「ここの近くのおうちで、小さなたんぼを作っているところがあったと思います。」
「ほんと?小さいやつか、それ探し漏れていたな。ナナリー、今度案内して。」
はい!と頷くのに笑顔を返して、そうだと切り出すルルーシュに顔を上げる。
「一体何の話をしていたんだ?」
ティーカップを傾けながらルルーシュが言った。特に気まずげな様子でもない。それは僕への信頼か、それともマリアへの信頼か。
「スザクさんの夢の話。ルルーシュ、あなた主役級の役割で登場していたみたいよ。」
「へぇ。そういえば昔もそんなこと言っていたっけか?どんな人間だった?」
「シスコンでマザコン。で、すっごくセンスが悪かった。世界が失笑の渦に巻き込まれたね。…ん?わわッ!ナナリーちゃんなにするの!?」
ティーカップにざらざらとスティックシュガーが投入されていた。何本入ったんだ、これ。底にたまっているグラニュー糖を丁寧にかき混ぜてナナリーが言った。
「どうぞ、スザクお兄さん。五本入れたから、とっても甘くておいしいと思います。」
きらきらとした目で見上げられて、どうにも断りづらい。好意か、子どもは甘いものが好きだというし。でも・・・
「…僕、さっき甘いものは苦手って言ったの、聞いていて入れてくれた?」
言ったのだ。先ほども砂糖を入れますかミルクを入れますかと、ホステスを気取って世話を焼こうとしてくれているナナリーに、礼を言いつつ砂糖は断ったのだ。世界一の紅茶大国アイルランドから輸入したらしいアフリカ・ケニヤ茶は、ミルクティーにすることを前提にテイスティングされていることが多いそうで、これもミルクを入れても香りを失わず綺麗なブラウンだ。ミルクピッチャーからそろそろと注いでくれたナナリーの髪と同じ色だ。普段はあまり飲まない飲み物だけれど、たまにはいいかと思っていたのだが。
「わざとです。」
にっこりと、三歳児が言い放つ。わざとね、わざと。
ルルーシュが、隣の席に戻ったナナリーの頭をよしよしと撫でている。
「…躾がおよろしいことで。」
くすくすと笑うマリアに、ナナリーが得意そうに胸を張っている。…まあいいさ。どろりと甘いミルクティー、幸せの味って言うじゃない。
仲睦まじい親子は見ていてほっと胸が温かくなる。この家族は、ずっと一緒に笑い続けることが出来るんだろう。あの日、ルルーシュと交わした言葉が蘇る。
「僕の両親は二人とも家庭の外にパートナーを持っていてね。でも家の中では仲のいい夫婦の振りをするんだ。」
いつか一生涯の伴侶が見つかるさと言うルルーシュに、子どものようにごねて見せた。僕は結婚なんて紙の上の約束は信じないし、綺麗な恋も愛も信じない。君となら、信じてもいいと思うのに。
「それは家族の発展系だな。誰が不利益被っているわけでもないんだろう。あ、でもその家庭外の推定二人の男女が家庭持ちだったら修羅場か、ほら、よく昼メロドラマである…」
「ルルーシュさ、わざとデリカシーのない事言ってる?僕がかわいそーだと思わないわけ?」
「だってお前、同情されたいのか。いいぞ、泣き付いてくるなら慰めてやる。よしよしって、頭撫でてやるぞ。」
同情、されたいわけではない。そうだ、同情なんかされたくない。結局、
「…僕の問題?」
「だな。俺がどうしてやることもできないよ。」
ひどいなぁ。胸を張っていうことじゃないだろう。この薄情者。口に出して小突かれて、お返しと上にのしかかる。一瞬息を詰めたルルーシュににっこりと笑う。
「君が。ルルーシュ、君が。絶対に壊れない家族を持つことが出来たら僕は信じてあげる。絶対の、綺麗なだけの愛があるって信じてあげるよ。」
「お前が俺に向けてくるものは何なんだ?」
「執着かな。綺麗じゃないよ。さっきも言ったけど、どろどろしていてとても醜い。」
「本当に人を好きになったらなりふり構わずみっともないものだって、言われたことがあるよ。」
「僕、みっともないかな。かっこ悪い?」
「かっこよくはない。」
「…ひどいなぁ。」
「でも嫌いじゃないよ。」
「好きって言って。愛してるじゃなくていい。」
「…
“Je ne te hais point !”」
「…フランス語?」
にやりとルルーシュが笑った。それきり口を噤んでしまう。
「好きなように取るよ。そうだな、『愛してる、を百万回!』」
「どうぞどうぞ。そういえば、“カサブランカ”って、スペイン語だけど何て意味か知ってるか?」
「二つに分かれるんだっけ?“カサブ”と“ランカ”?」
「外れ。“カーサ”と“ブランカ”。『家』と『白』だよ。『白い家』。」
「じゃあ、ルルーシュ。僕が君を訪ねる家は白い家にしよう。真っ白な壁の家だ。そこで君が幸せな家庭を築いているって約束して。」
僕が入り込めないくらい幸せを溢れさせて。それを見たら、きっとこの、影も。
振り払えると思うから。
「スザクさん、これ。」
それではそろそろお暇するよと、立ち上がったスザクにマリアが花を一輪手渡した。大輪の白百合だ。季節ですからと。
「立派に咲きましたね。」
「花粉は除いていないから気をつけて。」
この家のように真っ白な花弁に反して、濃い茶色の花粉は衣類につくと洗っても落ちない。また嫌がらせかなと思って、いやと思いなおす。これは、約束なんだ。ルルーシュは確かに守った。きっと、
「安心してちょうだいね。ルルーシュは私が必ず幸せにするから。絶対に、もう。悲しい思いはさせないわ。」
ああ負けたな。
にっこりと、百合の女王よりも華やかで自信に溢れた笑顔に適わないと思う。スザクが求めて、結局はしり込みしてしまった彼の幸せを、胸を張って約束してくれるのは彼女だけだろう。
「そうですね。その言葉、絶対に忘れないで下さい。もう、あなたはルルーシュを残して逝っちゃいけない。彼、本当は寂しがり屋なんですから。」
「私が知らないと思っているの?」
「いいえ。でも、僕はずっと、見てきたから。」
あなたが知らない、破壊と喪失の狭間を駆け抜けた彼を見てきたから。僕も同じ場所に立っていたから。
「…そうね。」
落とすように笑う顔は、最期に見た彼のものに似ている。そうだ。
「ジュ、ヌ、テ、ポウェン…とか、どういう意味か知っていますか?発音悪くて申し訳ないけど、僕がルルーシュに好きと言ってって、言ったときに。彼が返してきたのがこれだったんです。」
「ジュ、ポウェ…ああ、きっと“Je ne te hais point .”だわ。」
そうだ、そんな音だった。
「意味は?」
「『憎んでなんていない』で、ひっくり返して『愛してる』よ。…あなた、しばらく家の敷居をまたがせて上げないわ。」
睨みつけてくる綺麗な目は多分に笑いの色を浮べている。本気で怒っているわけではない。だがそんなことにも気づかないで、スザクは言われた意味を考えた。歩きながら、もしかしてと、胸が騒ぐ。“カサブランカ(白い家)”を出ても意味をなぞって視線は足元。『憎んでなんていない』。あの日、本当は。死に往く彼に言いたくて、言えなくて。それなのに言ってほしかった言葉だ。憎んでなんていないよ。
「スザク!お前、ふらふらさっさと帰るんじゃない。まだ俺、言いたいことがあったんだぞ。」
「…なに?何を言いたいの?」
そうだよ、答えはもう出ているけれど、君の口から聞きたいんだ。
「俺は今幸せだよ。何よりも大切な二人の家族がいて、約束だった白い家も持てて、そこにお前が来てくれた。なぁ、これ以上幸せになんてなれなよ。だから、さ。」
うん、だから?
「お前も、幸せになってくれよ。もう何に囚われる必要もないから。」
「…うん、…うん。」
影が晴れていくのがわかる。青空に日が差し込む背景なんて出来すぎだけど、やわらかく夕日が辺りを包んでいた。ルルーシュの紫の瞳に映りこんで不思議な茜色に染まっている。
「スザク。もう、あの世界とはさよならだ。悲しみも憎しみも解けて消える。お前は、今度こそ幸せになって。俺は、もう幸せだから、今度はお前が。」
「君と、一緒じゃなかったけど。」
「もっと、お前にふさわしい人がいるよ。保証してやる。」
「結婚式には呼んであげるよ。君は呼んでくれない薄情者だったけど。」
気まずげに眉尻を下げるルルーシュに、軽くパンチを繰り出して向き直る。これで、悩むのも最後だ。
「“ルルーシュ”。さよなら。忘れないけど、もう君は過去の人だ。」
「ああ。」
「すまないと思い続けた“俺”も、置いていく。」
「うん。」
「僕は、また来るよ。」
「それは嬉しいな。」
にっこりと笑うルルーシュの顔が、本当に嬉しそうだった。今まで見たどのルルーシュよりも幸福そうに見えて、それは自惚れだと頭を振りつつ面映く思うことだけは許される気がしたから。
一度ぎゅうと目の前の、大人になっても線の細い体を抱きしめて顔を見せずにもう一度さよならと呟く。そして消える。過去も悪夢も、君と僕とで別れを告げる。そっと離れて再び歩き出した夕暮れの道、振り返れば三人の家族が見えた。
ルルーシュに抱き上げられて手を振るナナリーと、ルルーシュに寄り添うように立つマリアンヌが笑っている。この人は任せてと、唇が言った気がした。
fin.