そっと指先で開けられたロケットの中。
「――この子が、ナナリー?」
亜麻色の髪をした愛らしい少女。波打つ髪が妖精のようにうつくしかった。
「この女(ひと)は…」
「ラクシャータ・チャウラー」
白銀の髪がハッと目を引く美女だった。堀の深い顔立ちはこのあたりでは見ないもので、褐色の肌はたぶん東大陸の――
「娼館の女だった」
凝視するスザクの視線を、ルルーシュは瞳を眇めて受け止めた。
Reminiscence
大きな街。
金持ちも貧乏人も皆がひしめき合って生きている都会の街があった。
「ただいま、ナナリー!」
紙袋を抱えた少年が、部屋の中の少女に明るく言った。
「今日はおかみさんからバターをもらったんだ。少しだけど小麦粉と、りんごを一つ買えたから久しぶりに甘いお菓子を作ろう。コンポート、好きだろう?」
お帰りなさいと小鳥のような声で言った少女が、まあうれしいと微笑んだ。少女は目が悪かった。身体も弱く今も兄の帰りを質素な床の上で待っていた。
「…具合はどうだい?寒くはなかった?」
「大丈夫ですよ。お兄様こそお風邪を召しておりませんか?今年の冬はひどく冷えるというのだもの」
痩せたてのひらで兄の頬に触れたナナリーはその冷たい感触に顔を顰めた。
「外から帰って来たばかりだから。僕はナナリーよりもうんと強いから平気なんだよ」
お兄様だもの、とおどけて言うのは兄の口癖だった。ナナリーは表情を和らげてその日一日で作り上げた造花を示した。
「今日は十個のお花を作れましたの。昨日よりも一輪多いのですよ」
「あまり無理をしないで、ナナリー。ナナリーの目が何も見えなくなってしまったら僕が悲しい」
胸を悪くして床を離れられないナナリーは、紙で造花を拵えて生活の足しにしようとしていた。まとまった数ができればルルーシュがそれを売りに行く。
当主のよからぬ腹のうちを読んだまだ子どもの兄妹二人は、逃げてきた街で細々と日々を暮らしていた。
「お兄様だって。朝も早くて夜も遅い。…ごめんなさい。ナナリーがもっと働けたらお兄様一人にこんな」
「ナナリー」
再び顔に影を落として俯いてしまったナナリーの名前を呼んで、ルルーシュは血の気のないてのひらを包み込んだ。
「言っただろう。僕はナナリーが元気でいてくれたらなにより嬉しい。春になったらもっとあたたかい町に行こう。二人で小さなレストランを開こうね。僕が料理を作って、ナナリーがもてなしの紅茶を入れるんだ」
「…お兄様はとてもお上手ですものね。ナナリーも早く元気になって、お兄様に追いつかなければ」
かすかに震える細い指に、ルルーシュは泣きそうな笑みを浮かべて頷いた。
「小さな宿屋の雑用を片付ける仕事、かな」
スザクは店も宿もない田舎の小さな村で育った。物々交換で手に入らないものだけ街に出て買い求める。身寄りのない子どもが二人でどんな暮らしをしていたのか、正直なところよくわからなかった。察したルルーシュが昔話の合間に言葉を補う。
想像しづらい過去に知らず眉根が寄せられた。
「そこのおかみさんがいい人で、自分も貧しいのに孤児二人を使ってくれたんだ。妹にもよくしてくれて、一日中外に出て働くことが出来た」
「宿屋の仕事?」
「住み込みとはいえ好意で置いてもらっていたんだ。あまり高い給料は望めないよ。手先は器用だったから仕立て屋で仮縫いを手伝ったり荷運びをしたり、読み書きができたからたまに宿屋の泊り客の代筆をしたり」
折悪しく隣の領地で戦ごとがあり、流れ込んできた人々の数に選べる仕事も多くはなかった。
貧困が街の深部に蟠り、流行り病も皆を苛んだのだろう。
「昔だって、胸の薬は高価だったんだろう」
「今よりもな。拾ってくれた館のおばあさまから教えられた薬草の方がよく効いた。でも森も遠くて、どうしようもなくて」
苦い声が先を続ける。
寒さの厳しい時代だった。
ルルーシュはもっと実入りのいい仕事はないかと探しては肩を落としていた。
やせっぽちで同い年の少年ほどの力もなく、ナナリーと離れて泊り込むことも出来ないから大きな仕事には就けない。日雇いの雑用や手伝いでは高価な薬はとても買えない。妹に内緒で無理を重ねた身体がふらふらと壁に寄りかかる。
「…ゴホッ」
ここのところ咳が止まらない。人前では極力隠しているそれも、妹に巣食う病と同じだろう。季節にそぐわない薄い上着の袷を掻き寄せて蹲る。唾液を下して騙し騙し身体を宥めた。握りつぶさないようにそっと広げた手の中で、乾いた偽の花が揺れる。今日は一輪しか売れなかった。クリスマスの頃になれば街も華やぐだろうがまだ一月ほど先だ。薔薇を象ったピンクの造花。自分が倒れたらナナリーはどうなる。せめて春まで。冬を越せればきっとあの子の胸もよくなって…
「君、」
頭上で男の声がした。ぼんやり見上げるとそこそこよい身なりをした男がじっと自分を見下ろしていた。
「ふむ。思ったとおり、綺麗な顔をしている。そこに立ってみたまえ」
えらそうな物言いに不快な気持ちを押し込めて、ルルーシュは黙って立ち上がった。ぐいと持ち上げられる顎。思わず顔を顰めた。
「痩せぎすだな。血色も悪い」
「…それはどうも。何かご用でも」
「ああ、気を悪くしたのならすまない。でも君のような子どもを好む旦那は多いんだ」
「はい?」
何を言っているのかわからずに身を退いたところ、腕をとられて引き摺るように男は歩き出した。
「ちょ、何を、」
「今よりもいい暮らしをしたいだろう。私についてくればもう寒さに震えることもない」
「…働き口が?」
「払いはいいぞ。これから雪が降り始める。コートの一つもほしいだろう?」
「寝たきりの、妹がいるんです。お医者に診てもらうことが出来たら、」
「旦那方に『お願い』してみるんだな。実の妹か?」
「三つ下の…」
「君に似ているのならその子にも運があるだろう」
足をもつれさせながら着いていく内に、ルルーシュは何か嫌なものを感じていた。手首を握り締めたきり離れない男の手が気持ち悪い。路地を更に奥まで進み、足を踏み入れたことのない場所にいることを悟って不安になった。ここはおかみさんが寄り付いちゃいけないと言っていた…
「ちょいと待ちな」
振り払って逃げようか、仕事の話を聞くだけ聞こうか決めかねているルルーシュの耳に女の声が届いた。腕を引いている男がしまったというふうに立ち止まる。
「ディートハルト。あんた、堅気の子どもを無理やり引っ張り込もうってのかい?」
見たことのない異国の女だった。長くウェーブのかかった髪がナナリーとよく似ている。
ディートハルトと呼ばれた男がルルーシュの腕を放して両手を挙げた。
「こんな格好でいたら冬を越せないだろうと思ってね。優しい紳士に引き合わせてやろうと云う親切心だよ」
「ふん。それでそのお優しい御仁はあんたにいくら払うんだろうね。綺麗な子じゃないか。あんた、」
「は、い」
いきなり話しかけられて戸惑った。少し訛りの入った言葉。
「こいつは悪い男だよ。騙されちゃいけない。取って食いやしないからあたしについて来なさいよ」
煙管を加える女性をはじめてみた。細い煙の出先で方向を示され、どうしたものかと思案する。
「それはないだろうラクシャータ。横取りだ」
「あんたに任せといたらこの子、本当に食い尽くされちゃうでしょうが。黙って手をお退きよ。何にも知らない子どもに無理強いするもんじゃない」
やれやれと肩を竦めたディートハルトがついて行けと目配せした。
「いつでも大歓迎だからな。仕事を紹介してやるよ」
「…どうも」
迷って軽く頭を下げたルルーシュに目を丸くして、ディートハルトは破顔しながら立ち去った。
「名前は?」
「…ルルーシュ・ランペルージと、言います」
「お貴族さんみたいな名前じゃないの。まあ世の中色々だからねぇ」
「あなたは、」
「ラクシャータ・チャウラー。東大陸から売られてきたんだ」
「…売られて、」
「あんたも危ないところだったんだよ。あのディートハルトってのは悪趣味なおえらいさんにあんたみたいな小奇麗な子を仲介してやる仕事をしているんだから」
「……僕は、女じゃない、」
「あはは、悪趣味って言ったでしょお。命の保証もないわよ。長生きしたけりゃうまい話には耳を貸さないこと」
「でも、妹が胸の病で」
「あんたも顔色が悪いねぇ。白いからすぐにわかる」
薄汚れてはいるけれど大きな建物だった。
一続きの石壁に取り付けられたドア、おそらく裏口だろうそこから中に促される。躊躇ったがルルーシュは足を踏み入れた。ラクシャータは悪い人間に見えなかった。きっと礼も言ったほうがよいのだろう。
「ラクシャータ、」
「!へぇ…」
「?なにか、」
人の気配はするが静かな、おそらく酒場だった。見当をつければ宿つきの。戸惑いながら腰を下ろした寝床は
客を取るためのものなのだろう。
「いや。一発で正確な発音をしたやつははじめてだったからね」
「…聞かない名前だけれど、綺麗な音だ」
「コックニー(下町訛り)じゃないね。ほんとにいいとこのお坊ちゃんだったのかい?」
「さあ。母は早くに亡くなったから。助けてくれてありがとう。たぶん」
最後の一言にラクシャータが吹き出した。首を傾げるルルーシュに涙目で説明する。
「だ だってね…あんた、本当はよくわかっていないでしょ。ディートハルトにも頭を下げて」
「…困ったことになったらあの人のことも恨んだと思う。でもそうならなかったのはあなたが止めてくれたからで…たぶん」
「ハハ、まあ礼儀は正しいが中途半端な警戒心が邪魔をするってところかしら。あんたも金に困っているの?」
この甘ったるい香りは煙管からするのだと考えていたルルーシュは、見栄を張っても仕方がないことを知っていた。自分ひとりならやせ我慢も意味がある。でも今はあの子がいるから。
それにラクシャータはひどくあけすけでそれが嫌味でない女だった。
「はい。身寄りがないんです。家族は三つ離れた妹が一人。…でもここで僕が役立つことはありませんね。失礼します。これ、一つ差し上げます」
ディートハルトが斡旋しようとしていた仕事の内容はここへ来てようやく察しがついた。どうしてとも思うが、昼間でも暗い部屋、安普請とすぐにわかる薄い壁、澱んだ空気。こういう世界も、あるのだ。
ナナリーと一緒に拵えた紙の薔薇を一輪差し出す。
「礼のつもりかい?」
「さあ、どうだろう」
「あんた『たぶん』って二度も言ったね」
「ふと思っただけだ。感謝が失礼に当らないだろうかと」
「あんた、この仕事が卑しいもんだと思うかい」
ラクシャータがマリンブルーの目を僅かに深めて言った。ルルーシュは瞬きをしたけれど怯んだからではなかった。
扉に向き掛けていた身体をラクシャータに戻して口を開く。
「死ぬよりも生きることの方が難しい。そして生き方を選べるうちは運がいい。そんなものだろう」
「…あんた、歳は、」
「今年の冬で十七になるんだと思う」
「その花は全部買ってあげる。少しばかり、あたしに付き合いなさいよ」
偽の薔薇がかさりと散った。
パチリと薪が爆ぜる音。
暖炉の傍に寄せた椅子にスザクが腰掛け、ルルーシュは暖炉の灯りと闇の境に溶け込むようにしていた。テーブルについた手に肩頬を預けて、じっと炎を見つめる。ゆらゆらと揺れる朱が紫の瞳に映りこんで不思議な色をしていた。
「――…統制令が出たばかりの頃だった、かな」
いったん話をやめたルルーシュに、スザクは立ち上がって湯を沸かしながら言った。躊躇いがちな言葉にルルーシュが顔を上げて目を細めた。
「知っているのか。そう、今でこそ規制と保護抱き合わせの商売だが、当時の娼婦は被差別民だった。市民権もない。搾取されるだけの、社会的弱者」
「君の目にはどう映ったんだい」
紅茶を注ぎながら訊ねた。煮焦がして粉末にした薔薇の花弁をスプーンに一さじ。熱いうちに手を出さないのは今、体温を消しているからだと考えた。ルルーシュは遠い目をしている時はわざと、人でないことを思い出そうとするように鼓動すら忘れてみせる。それはいったい、どうして。
「別に。自分のことを恥じるのは勝手だが、他人にそうするのは傲慢だろう」
「同情も?」
「俺だって哀れまれるのは大嫌いだ」
「君のそういうところを、彼女は好いたんだろうね」
「俺は十七歳のガキだったし、彼女も四半世紀生きたかどうか。傷の舐めあいでしかなかったんだ」
今思うと。
ルルーシュは記憶の底を攫うように瞳を眇めて先を続けた。
軋む扉で、音を立てないように滑り込んだ。
そっと触れたナナリーの額は熱を持って、頬は少し赤い。
「…おにいさま?」
「っ、起こしてしまったかな」
ごめんと謝る兄に、妹はいいえと首を振った。
「起こしてくださいますか」
月の明るい夜だった。窓の外はシンと冷えてガラスは冷たい。宿の客も寝静まる時間に、ブランケットを手繰り寄せてルルーシュはナナリーの薄い肩を覆った。
「今日は満月ですか?とても明るい」
「もう二、三日かな。でも白くて綺麗な月だ」
体温を分けるように抱きしめた妹の身体は以前に増して痩せ細り、心の震えが表に出てしまわないように苦心した。ゴホゴホと咳き込む背中をさすってやりながら、懐に大切にしまっていた櫛を取り出す。
「まあ、これは…」
「ガラス玉で作った櫛なんだ。ナナリーの目の色をしている。クリスマスには少し早いけど、なんだかうれしくって」
「ふふ、お兄様がナナリーのサンタさんですもの。ありがとうございます」
壊れやすく美しいだけのガラスの櫛は、実用にはあまり役に立たずもっぱら見て楽しむためのものだった。ただ、今娘たちの間で流行っているらしく、店先で淡いアメジストの光を見つけたルルーシュが一時の逡巡の後買い求めたのだ。
このクリスマスを、越せるかどうかの妹のために。
兄は妹の長い髪を梳いた。ガラスの櫛は目が粗い。床についている妹の乱れた髪も傷付けることなく整えてくれる。高いものではなかった。でも無理をしないで買える物でもない。ラクシャータとあうようになってからはなんとか薬も力のつく食べ物も買って帰ることが出来るけれど、髪飾りはぜいたく品だった。けれど本物の薔薇よりも安い。だから、この優しい妹に。
本当はクリスマスの朝まで待つつもりだったのだ。このアメジストの櫛を大事に懐にしまって、少しばかり華やかな食卓を囲んで眠りについて、翌朝メリークリスマス!の言葉とともに…でもその日を待つのが不安で。渡せなかったらどうしようと。こわくて悲しくて我慢が出来ずに、月初めの今夜渡してしまった。とても綺麗な月夜だから。いい光が集まるのだと異国の女は冗談でも言うように話していたから。
元気になってナナリー。
春になったらあたたかい街に行こう。
「ナナリーの髪はお母様の髪と似ているよ。ゆるやかに波打って、とてもやわらかい」
「うれしいです。お母様のことはよく覚えていないのだもの」
「生まれたばかりだったものね。僕達は随分、色々なものを見てきたのかもしれない」
「森で暮らして街で暮らして。いつだってお兄様と一緒だったから。大切な思い出です」
「…薔薇を育てて暮らしている村があるのだと、聞いたんだ。本物の薔薇を絨毯のように敷き詰めて、風にはいつも薔薇の香りがして」
「まあ!とてもすてき!」
いつか二人でまいりましょうね。
そこには本当のピンクの薔薇もあるのかしら。
微笑む妹の、透き通るようなうつくしさに。兄は涙を見せまいと唇を噛んだ。
「あんたは大きくなれないかもしれないねぇ」
ラクシャータが少年の薄い背中を撫でて言った。
「骨の成長が悪いんだよ。子どもの頃に苦労したやつはみんなそう。細くて頼りない」
長生きもできないもんさ。
気遣いもなければぞんざいな色もない声で女は言った。
「自分で死のうとは思わないけれど…でも長生きは、したくないな」
「置いていかれるのが嫌だから?」
「自分ほども生きていない子を見送るのは、どうしても…」
口を噤んだルルーシュが身支度をしながら咳き込んだ。軋む骨が目に見えるようで手を伸ばしたラクシャータから無理やり離れる。
「ゴホッ…もう、」
「来ない、なんて言うんじゃないよ」
「だって、ゴホッぅ…」
「あんたは客じゃないの。あたしが買ってる男なんだよ。あたしの好きにするんだから」
細い手首を引いて抱き寄せる。薄い肩。あばらの浮いた胸。大人にはなれないだろう。ずっと、少年のまま。
戸惑いがちに触れ合った身体はひどく綺麗で、透き通るような白皙の肌は娘の時分に憧れたものだった。浅黒い自分の肌はこの街ではひどく目立って。色を洗い流せないかと血が滲むまで擦ったことがある。白銀の髪だけは自慢で、毎日時間をかけて梳いていた。大嫌いな客でも髪を誉められれば嬉しかったし、邪魔だと切られてしまったときは涙を堪えるのに必死だった。
ルルーシュの髪はまっすぐな黒髪だ。肌の白さに相俟って、鮮やかなコントラストに内心密かに息を飲んだ。瞳の色も、この客商売ですら見たこともない紫をしていて。
うつくしいと思った。話してみたくなって連れ込んで。心はもっと好ましく思えたからこうして会える日を楽しみにしている。
「本当は復讐のつもりだったんだよ」
「…だれに?」
「男にさ。女を食い物にしてそのくせ汚いものでも見るようにこんな場所に閉じ込める」
市場に買い物をしに行くこともできない。商品に触れることができないからだ。細々とした物売りがこの娼館にやってくる。でも山積みの果物の中から好きな一個を選んでみたかったし、明るい客引きの呼び声も聞いてみたかった。
つまらない感傷にラクシャータは苦笑して首を振った。黙って聞いていたルルーシュが口を開く。
「相手が悪かったな」
「金を巻き上げることが出来ないから?」
「僕は客じゃないんだろう」
「昼間に来るやつはいないねぇ」
「ちっとも堪えていないからさ」
「ここまでやってくる度に、人目を忍ばなくちゃならない」
「ディートハルトが使った道は普段から人通りが少ないんだ。そして最短距離だ」
「それでも、ろくでもないやつは、この界隈にうろうろしている」
「蹲って咳でもしてやればいい。臆病だからすぐに逃げていくんだ」
「こんなやせっぽちの子ども一人に?」
「蜘蛛の子を散らすみたいに」
ラクシャータが堪えきれずに笑い出した。引付を起こしたように肩を震わせて、ルルーシュはどうしたものかと思案に暮れて、震えが収まった頃に髪を梳いてみた。妹は髪に触れられるのが好きだから、彼女もそうなのではないかと思って。
「…いいことを教えてあげる」
「なに?」
「女は嫌いな男に髪なんて触らせない」
「、」
戸惑うように手を退きかけた少年の手を、褐色のてのひらがそっと押さえた。
「嫌いな男にはって、言ったでしょう」
「…僕も、嫌いな人間には近づかないけど」
「じゃあ遠慮はいらないってこったね。互いにね」
ラクシャータはにこりと笑った。少年はその笑顔が本物かどうか探るように凝視した後、安堵するように目元を和らげた。
まったく。
こんな人間は幸せにならなくちゃいけないってのに。
少年からしたかすかな血のにおいに、異国の女は溜め息を押し殺した。
「それからしばらくして、妹が死んだ」
「…クリスマスには」
「日を七日ばかり残して。覚悟していたはずなのに、いっぱいになってしまって」
「…ルルーシュ、」
悲しみの色を探そうとして、スザクは顔を背けた。そこには何もなかったからだ。もう過去のことなのだろう。その時いくら泣いたとしても。
カタリと椅子を引く音が聞えて、わずかな衣擦れの音が耳に届いた。足音。目の前を覆う影。
「…ルルーシュ?」
「お前は、悲しみは消えないと思うのか?」
するりと頬を滑った指先は冷たい。ルルーシュは無表情でスザクを見下ろしていた。
「わからないよ。僕はまだ、父さんと母さんのことを思い出すと、泣きたくなる」
「もう十年もすれば涙も出なくなるさ」
「そんなこと、」
「ないと。どうして言える?高々三十年も生きていないお前が」
「ルルーシュ、」
「寒い雪の日だった。妹は眠るように息を引き取った――」
「…ルルーシュ、」
宿屋のおかみさんが躊躇いがちに声をかけた。
妹の亡骸から離れようとしない兄が、虚ろな目をしてそれに応える。
「ナナリーちゃんの葬儀代なんだけどね。用意してあるのかい?」
「…そうぎ、」
「あんたがそりゃあ一生懸命身を粉にして働いていたことは知っている。時代が悪いよ。あんたたちみたいないい子が寒さに震えなきゃならない世の中なんて、時代が悪いんだ」
やるせない思いを囁くように、おかみさんは繰り返した。彼女の息子も流行り病で亡くなっていた。貧しいものは寒さと飢えに命を吸い取られる。
「ナナリーちゃんの髪は、長くてとても綺麗だね」
「まさ、か…」
ハッと瞳を揺らした少年に言うのが躊躇われたけれど、教会に葬ってやらなければ安らかに眠れない。死者は儀式において迷いなく生を終える。
「珍しい色だ。手入れもちゃんとしていたんだろう。髪がいい値で売れることは知っているね」
「だめです、そんな…ナナリーの髪を切るなんて、」
弱弱しく首を振るのが見ていられなかった。それでも言わなければならない。どれだけかわいそうでも彼女には葬儀代を用立ててやることは出来なかったし、今は冬でみなが物入りだ。少年の頼りない肩に手を乗せて言う。
「ルルーシュ。生きている間に大事にしてやったろう。ナナリーちゃんだって怒りやしないさ。あたしが高く買ってくれる店を知っているから、」
「お願いです!…少しだけ待ってもらえませんか。明日の朝までにお金は用意してきます。それまで、ナナリーを、ここに…」
「…かまわないよ。火はたかないで置こう。寒いほうがいいからね。
ルルーシュ、」
「はい」
「あんまり無茶をするもんじゃあないよ」
「はい」
ふらふらと冷たい街に歩いてゆく細い背中を見つめながら、宿屋のおかみは首を振った。
「なんでだろうねぇ…時代のせいだよ」
凍りついた石畳を歩いていた。
橋の上には解けない雪が積もっている。
自分の吐く息が白い。前が見えない。
「…ルルーシュ」
女の声が聞えた。馴染みのある女の声だ。
「ラクシャー、タ?」
張り付くように冷えた欄干に手をついて身体を支えれば、安い香水の香りが移ったショールが首を覆った。
「馬鹿だねぇ。あんた、どうしてこんなに馬鹿なんだろうね」
全身がひどく痛んでいた。骨まで凍るような寒さのせいだと思う。ルルーシュは立っていることが出来ずに、ずるずると地面に座り込んだ。
「…そうかな」
「そうだよ。ディートハルトに聞いたの」
「守秘義務ってのは、ないんだろうなぁ…」
「筒抜けだよ。噂っていうのは、特にあたしたちの世界ではね」
「…天国に届かなければいいんだ」
「逝っちまったのかい」
「髪を切らなければ、送ってやることもできないと、言われて」
「…」
「どうしても、嫌で」
「…櫛も挿せない髪なんて、みじめだからねぇ」
ラクシャータは半分本当で半分嘘の言葉を言った。
この少年の妹は、兄をぼろぼろにして己を飾りたいなんて思わないだろう。
それでも、ルルーシュはラクシャータの言葉に嬉しそうに笑った。子どものような笑顔だった。
「少し前に贈った櫛があるんだ。それを棺に、一緒に」
「これ、あんたにもらった造花だよ。あたしにはピンクなんて似合わないけど、妹にはよく合うんじゃないの?」
いくつもあったのだ。紙の花。どれも淡い色をしていて、自分には不似合いだと思っていた。それを言えばこの少年は困ったように笑っていたのだけど。
「…いつか、本当のピンクローズを」
「それじゃああたしの墓には血のように紅い薔薇がいいね」
「…ラクシャータも、僕をおいていく?」
「子どもは大人を見送るもんよ。立てる?」
泣きそうな顔で一つ息を吐き出した少年は、頷いて腰を上げた。
「またね」
「元気で」
見送った背中は、この冬を越せないだろう。
スザクは両手を握り締めていることに気がついた。
力を抜くと、噛み締めていた奥歯が鈍く痛んだ。
「…そして、C.C.さんと会った?」
「クリスマスの夜に、ナナリーと雪が降るのを眺めていたんだ。灰色の空が突然翳って。はじめて会ったバンパイアはコーネリアだ。赤い髪が目に痛くて」
くすくすと笑いながら話すルルーシュの心がわからなかった。
時が経てば、何を忘れられると言うのだろう。
コーネリアはふと思い立って聖夜の街を見物していたのだ。昔は――人間だった頃は、この日がとても嬉しかったことを、思い出そうと思って。
「…だめだな。遠すぎて、よく思い出せない」
華やぐ人々の表情や、ごちそうの匂い、鈴の音を聞いても心は躍りも弾みもしない。どう頑張ってみても、人であった過去は遠いのだった。
「賛美歌でも聴いていくか?悪趣味だな」
神に背くバンパイアが神の子の誕生を祝うなど。
コーネリアはくく、と喉の奥で笑いながら墓地に目を向けて、雪に埋もれてしまいそうな人影を見つけた。
「…子どもか」
雪よりも白い頬をして、小さな墓標を抱きながら目を閉じていた。
「哀れな、…」
気まぐれだった。せめて地に埋めてやろうとその体に手をかけた。
「あたたかい?」
なら生きているはずだ。
「死んでいないのなら」
連れて帰ろう。
そして寒さに凍えることのない生を。
抱き上げれば薄く開いた瞳の色は、コーネリアよりも深い紫だった。
「お前は私の弟になるがいいさ」
城に連れ帰ってみて驚いたことには、一族の長、始祖たる女吸血鬼が目覚めていた。緑の髪に金の瞳。
コーネリアは腕に抱えた死に掛けの少年を差し出して言った。
「C.C.、この子どもを一族の仲間に迎えたい」
「拾ってきたのか?」
「墓の前で倒れていた」
「クリスマスに縁起のいいことだ」
「よろしいか?」
「待て。私の血を与えよう」
コーネリアは高位のバンパイアだった。彼女から血を与えられる幸運な人間は誰だろうと、仲間がそっと見守っていた。そこへ、始祖たるC.C.の申し出。
広間がひと時ざわついた。
「子ども。名は」
かすかに動いた唇の動きを読んでC.C.は続けた。
「ではルルーシュ。不老の血族に名を連ねることを選ぶか」
黙って目を閉じる。C.C.は口の端を持ち上げてルルーシュの首に傷をつけた。一滴の血を口に運ぶ。
「死にたいか、生きたいか…お前には生きなければならない理由があるのではないか?」
ゆっくりと持ち上げられた薄い瞼が、苦しげに震えた。
「…あかい、ばら を…」
「この城には咲き乱れているぞ。連れて来て見せてやればいい」
「契約だ」
沈黙の後に牙を光らせ、始祖たるバンパイアは深紅の瞳を瞬いた。
年が明けてもまだ春は遠い。
客足が遠のくこの季節に、ラクシャータはぼんやり窓の外を眺めていた。ルルーシュはあの日を最後に姿を消してしまった。どこに住んでいたのか知りもしないから、もしかしたら元気でやっていると思いたいのだけど。
「薔薇の血族…あの子にならふさわしいんだろうねぇ」
客の一人が夜伽話にしていったのだ。薔薇に囲まれ、時を越えて生きる不老の一族。ラクシャータは偽の薔薇を弄びながら考えていた。もし、自分がその仲間になれたなら――
「こんな安物の香水なんて霞んじゃうんでしょ」
纏う香りで商売がわかってしまうような薄っぺらな香水。本物の薔薇の香気には叶わないだろう。鼻先に持っていった造花は紙の匂いしかしなかったけれど、ルルーシュが持つと芳しい芳香が宿っているように見えた。
「できたら、二人で、…フフ。馬鹿な夢物語。ちょっとくらい小娘みたいなことを夢想したっていいじゃないの」
何かに言い訳をするように目を閉じて、ラクシャータは本物の過去とありえない未来を思い描いた。
十四の歳に売られてきたのだ。理由なんて知らないし、きっと運が悪かっただけなのだろう。言葉もわからず、褐色の肌を馬鹿にされて。日のあたる場所も歩けずにじっと日陰で生きてきた。優しくしてくれる人もいたし好きになった人もいるけれど、みんな自分から離れていった。所詮は同情や憐れみばかり。
生きていくには強くならなければいけなかった。
誇りを捨てたら生きてはいけない。
蔑まれようと卑しまれようとどんな時でも胸を張るのだ。あたしの人生はあたしのもの。始まりの日を選べなくても、今の生を選んでここにいる。恥じちゃいけない。恥じたら負けだ。
今、ここにいるあたしはあたしの意思でここにいる。過去の自分も未来の自分も恥じはしない。
「肩肘張って強がって…そんなあたしでも…」
そして綺麗な少年に出会ったのだ。
似たような、境遇の少年に。
貧しくて。でも逃げ出すことも出来なくて。それなら胸を張って生きていこうと。妹のために生きていた。
矜持を侵してはならないことを知っていた。あれは傷の舐め合いだっただろうか。ちがう。
「好きになったんだよ。小娘みたいにね」
いつも偽物の薔薇を携えてやってくるルルーシュは、本当の薔薇の国の王子様で。
街で見初めた異国の女を自分の国へ連れ帰る。
…――
カランとドアに括りつけた鐘が鳴った。
「…今日は店じまいだよ。もうすぐ夜が明ける」
「俺は客ではないんだろう?」
「!ルルーシュ!」
青白い顔をしてあどけない笑みを浮かべていた少年は、黒いマントを羽織って闇の中に佇んでいた。
まるで、夢の中から抜け出してきたみたいだ。
「…あんた、一体どうしたんだい…立派な身なりをして、本物の薔薇…!」
さすがのラクシャータもルルーシュの様子に驚いて上から下まで眺め回した。
髪の色と揃いの夜会服にアメジストのブローチ。こんなものを着こなせる人間はそういないのだ。本当に、彼は名のある家の出なのだろう。これが本当の姿…
溜め息を付きそうになって、部屋に溢れた香気にその正体を探す。ルルーシュは白い手袋をした手には大きな赤薔薇の花束を抱えていた。
「迎えに来たんだ。薔薇を育てて終わらない生を生きる一族の話を、していただろう」
「、それが?」
「見つけたんだ。正確には、見つけられたというか…」
現実感の伴わない話と、いつもと雰囲気の違うルルーシュに戸惑いながらも、煮え切らない言い方は懐かしくラクシャータは肩の力を抜いた。強い薔薇の香りがむせ返るように広がっていた。これは、もしかしたらルルーシュからしているのではないだろうか。
「…夢みたいな話だね。連れて行ってくれるのかしら」
「そのために、…いや、これは俺の勝手だ。選べばいい。どうする、ラクシャータ」
少し大人びただろうか。細身の身体は変わらず少年のままだけれど面差しは少しだけ歳を重ねたように見える。
手を取ろうか。
この世界から抜け出せる。
もう指を指されることも顔をそらされることもなく。
差し出されたてのひらをじっと見つめて、ラクシャータは首を振った。
「 なぜ」
「逃げるみたいだからさ」
今まで生きてきた自分から。
「何がいけない」
「今までの自分を否定するようじゃないか」
誇りだけは守ると誓った自分自身が。
「極論だ」
「かもねぇ」
あんたはやさしいから、そう言うと思った。
やさしいから、選べと言ってくれると信じていた。
自分で選ぶよ。
今まで必死に生きてきたあたしをね。
「ルルーシュ、約束したじゃない
か」
「、なにを?」
「あたしの墓に薔薇を」
胸を張って生きて、死んで見せるから。
あんたはそれを見守ってくれなきゃね。
「…赤い、」
「墓守に怒られちゃうかね」
「…俺がな。」
「悪いねぇ。今の内に謝っとくわぁ」
悪びれない口調にルルーシュは苦笑したようだった。
目を閉じて沈黙を共有する。いつもこの時間が心地よかった。
「あんたは変わっちゃいけない」
「かわる?」
ルルーシュがコトリと首を傾げた。あどけない仕草は無意識なのだろう。姿は立派になっても、こんな場所に大きな花束を抱えてやってくるようなところは変わらないでほしいと思う。
「年を取らないってのは、変わらないってことと同じでしょう」
「…そうかな。身体が老いないだけだと思うけれど」
「じゃあ努力して変わらないでおくれ。あたしは今のあんたが好きよ」
「同じことを言ったほうがいいのか?」
「…そういうところは直したほうがいいわねぇ」
「もう一度訊く。一緒に行かないか」
「また会いに来てちょうだいな。この商売で、男に惚れる日が来るとは思わなかった」
ここで照れるような男ではないのだ。かすかに瞳を揺らして薄い唇を引き結ぶ。
「髪を一房、もらえないだろうか」
「あたしの髪を?ちょっと待ってね、」
放り出してあった髪結いのリボンできつく縛って、ナイフを髪に当てた。ザッと音を立てて白銀の髪が切り落とされる。
「ありがとう」
「形見にでもしてくれるっていうのかしら」
「変わらないために、忘れてはいけないことがあると、思うから」
「…まだしばらくはなんとかやってると思うから。待っているわ」
頷いて、ルルーシュの姿は掻き消えた。
「…薔薇の血族。夢にしちゃあ、いい香りがするじゃないの」
ベッドの上には血のように赤い薔薇が。
そっと優しく微笑んだ。