【空シリーズ:遠いばかりの空でした、のシュナルルお別れ編です。(前)】
彼に触れたのは、どうしてだっただろう。始まりなんて忘れてしまった。きっかけなどあっただろうか。
(ない、な。ない。私から手を伸ばしたのは確かだけれど。)
美しいと思ったのだ。姿が?いや心も。触れられない無形の美を自分は愛したはずだった。だが、本当にそうだったろうか。
「 んっ ぁ は… どうか、しました か ?」
「…いや、少し、」
乱れる呼吸を宥めながら、少しばかり物思いに動きを止めてしまった自分を訝しげに見上げてくる眼差しは、変わらないと思う。しなやかに成長し、もう少年の危うい色香も透明な儚さも目の前の男は持ち合わせはいない。ここにいるのは男に、抱かれることに慣れた青年だ。もう一人で生きていくことの出来る、守る必要などない確立した個だ。こうして深く繋がったとして、自分は彼と同化できるなど思うことすら馬鹿げていると言い切れる。
「ゃっ あ ぁッ …」
「香りが変わったかと、思ったんだ。」
もう自分と溶け合うこともないだろう、この青年は。気づいているのか、彼はそれを望むのか。深く身を沈めながら、もう一度首筋に顔を埋めて息を吸い込む。違う。これは自分とは違う香りだ。交じり合うことのない、少し冷めやかな香りがする。
「…ああ。変えたんですよ。」
頭をベッドヘッドにもたせ掛けて、少しばかり掠れた声で青年は言った。白い腕を伸ばしてサイドテーブルにおざなりに放り上げておいた上着を取る。胸ポケットから取り出して見せたのは、自分とは違う銘柄だった。自分が彼に贈った貝殻のジッポーは昔のままそこにあったけれど。
「飽きたのかい?随分長いこと同じものを好んでいたと思ったのだけど。」
自分と、同じものを。
まだ少年の時分から目を細めて空を見上げながら、おいしくもないという顔をして白い煙を吸い込んでは吐き出し。まっさらだと思っていた彼から香りばかりはひどく甘い紫煙の気配を感じたときは柄にもなく驚いたのだ。どうしてと、訊ねた気もする。強いものだ。子どもが試しに口にするような軽いものではない。そう、どうしてと、自分は訊ねた。
「まずかったからかな。」
一瞬の沈黙。別に向かう先を求める会話ではないのだけれど。その小さな間は
意味があるように思われた。少なくとも自分にとって、一頻りの-その実瞬きほどの-思案に暮れる時間は必要だったのだ。
「…君は、以前にもそう答えたね。」
そう言えばきょとんと首を傾げて彼は不思議そうな顔をした。覚えているのは私だけか。些細なことなのだろう、君にとっては。しかし私には、大した事件だったんだ。君の髪から私と同じ香りがしたことは。
「まずいから吸うのかい?物好きだな。」
「…ああ、そっか。最初はね、あなたの真似をしていたんです。」
「私と同じになりたかった?」
「健気でしょう。慣れない煙草なんて銜えて粋がって。おいしくなんかないし、くせになるばかりで。」
刺々しい、ような気もする。私のようになりたかったと、かわいらしいことを言うには一人で歩いてきた道のりが長すぎるんだ。君はもう子どもじゃない。必死に後を追いかけてきてくれる君に、同じ香りを認めたときにはぞっとするほどの歓喜を覚えたのだと、もう伝えることはできないのだと知っている。だから、今私の傍から離れようとしている君を見て感じるのは、安堵なのかもしれない。
「ぇ? どう、したんですか。寒い? っ」
大人の男の身体だが、やはりまだ自分よりははるかに頼りないそれを抱き寄せて、驚いたように部屋の空調に手を伸ばそうとしたのを遮る。そう、寒いんだ、もしかしたら。
私の勝手で君を変えてしまった。でももう私達の関係もまた、変わろうとしている。それが君からだと、君の優しさがそうしてくれているのだと、私は知っているのだから狡いものだ。
「ルルーシュ、君が私に甘えてくれるのが嬉しかった。慕ってくれるのが心地よかった。触れ合いは、幸福だったよ。」
「…なんですか、急に。」
空も白んできた。カーテン越しに感じる日の光はかすかだけれど弱まりはしない。もう一度求めるつもりはなかったし、それは彼も了解している。覆い被さりながら、自分よりも赤味の強い、底の見えない瞳を覗き込む。
然して揺れてはいなかった。心など、言葉と仕草で見せるほどには動かしやしない。もう手を放すべきなのだろうと思うのは自分の都合の良い言い訳なのかもしれないけれど。
「遊びであったはずがない。気まぐれでもありえない。確かに私は君を愛していた。」
「知っています。もう、寝ましょう。にいさん。」
シュナルルは難しい…。