子どもの頃は不器用でしたが、なくした今はわかります。
会いに来たよ、最愛の人
その日、俺は約束をすっぽかした相手にもう起こる気も失せてぼんやり宛てもなく歩いていた。家に帰るのもいいし、このままぶらぶら日が暮れるまで外にいてもいい。寒さはよくないのだろうが、よくないのだろうと、思うことをするのが今の自分にとっていいように思われた。木枯らしが吹くような寒空の下で一人。一人だと思いたくて、一人だと思えばほっとした。あまり人に会いたくはなかった。賑やかな場所も、明るい会話もひどく疲れるだけだった。もともと自分は社交的な人間ではないし、努力で補えるほどの些細な人見知りなら今一人でいることもなかったのだと思う。
ふと、冬の風が薫る寂しい木立に顔を上げれば小さな子どもが一人、こちらをじっと見つめているのに気がついた。
「…。」
「えっと、あの、うんと…」
「…迷子?」
5、6歳だろうか。まだ小学校に上る前の幼い表情を浮べている子どもは、今はどの女とよろしくしているのか寒空の中に人を待ちぼうけにして一言メールで断りを入れただけの男に、どこか似ている。彼よりも黒味の強いまっすぐな髪に、彼よりも白い肌。目は、緑一歩手前の灰色だった。小さな体の全体を眺めてみて、それでも似ているなと思う。大きな目が、揺れるところとか。
「ち、ちがいます!僕…僕、人を探しているんです。お姉さん、一緒に探してくれませんか?」
「…交番に連れて行ってあげる。」
「っ、おねがい、しますっ!僕と一緒にママを探してください!」
どうしようか。子どもの相手など、同い年の人間との接触ですら満足に処し得ない自分に務まるとは思えない。口下手で陰気くさくて笑顔も碌に作れない。顔は綺麗なのにと優しい友人は言ってくれる。でもそれだけだと、なぜか自分に付き纏いたぶん、恋人の位置にいるのだろう彼は最近自分に飽き始めたのだろうと思う。それが普通で、彼のような人当たりのいい華やかな人間が自分のような冴えない女に興味を示したのが異常だったのだ。子どものころから回りは男兄弟に囲まれて育ったせいで一人称は『俺』、それを人並みに直そうともしない頑なな性格に、背も高くて痩せぎすの、可愛げない外見。彼が付き合ってと言って来たときには何の嫌がらせだろうと思った。どこかで誰かが覗き見ていて、自分が彼の告白を真に受けて照れでもする間抜けな姿を笑うつもりなのだろうと、思って身構えた。
(でも結局誰もいなくて。スザクは真剣な表情を崩さなかった。)
だから思わず頷いて。みんなに好かれる彼が隣にいてくれるのなら自分も変われるのだろうと夢を見ていた。しばらくは、きっと幸せだったのだけれど。
「だめ、ですか…?」
「…いいよ。わけあり?」
今度もまた思わず頷いてしまった。有無を言わせない強引な(この子どもの場合は哀れに訴えるものであったが)物腰はやはりスザクに似ていると思う。考えてみると最寄の交番まで2キロはあるのだ。不意に予定がなくなったせいで自由になる時間はたっぷりあった。このまま彼の前から姿を消そうと思う。一縷の望みをかけて、最近家に帰ってこない彼に連絡を取って話を聞いてほしいと頼んで。あの、初めて言葉を交わしたときのような真剣な顔をして引きとめてくれるならこれからもずっと一緒にいられるのだろうと、子どもじみた夢を見ていた。それでも心のどこかでは冷えた思考が止めどもなく溢れて、部屋のクローゼットの中には当座の荷造りはしてあって。このまま一度部屋に戻り、そしてこの町を去るつもりだった。いつまでも彼の傍にいるわけにはいかなかった。
迷子ではないが探しているのは母親。別居している母を訪ねようとでもしているのだろうか。詮索は好かないが、最低限の情報は必要なわけで、自然子どもとの間に会話が生まれる。
「僕が生まれてすぐに、ママはいなくなっちゃったんです。パパに言っても会わせてあげることはできないんだよって、言うばっかりで…。パパだって会いたいくせに、強がって会いに行こうとしない。」
子どもは不満げな表情を隠しもせずに(隠せたらそれはもう子どもではないのかもしれない)ママに会いたいと繰り返した。手を繋いで歩いていたのだけれど、それは子どもが躊躇いがちに小さなてのひらを差し出してきたからであり、離せないのは何度も自分を見上げながら歩く様子に転んでしまわないか心配だったからだ。温かい子どもの体温が、なぜか慕わしくて離れがたかったわけではないと、思う。
「このあたりに住んでいるのか?」
一人暮らしの人間が多く住む街だ。ぽつりぽつりと、思い出したように家族住まいの一戸建てが点在し、あとはアパートや古い下宿が立ち並ぶ鄙びた場所。学生の町であり、いつも時代も変わらない時間が流れてきたような閑静な住宅街だ。
「うん、そう。パパがここでママと出会って、一緒に暮らしていた場所なんだって。」
「…。」
その情報では、ママとやらに辿り着ける可能性は低いのではないか。ここは定住者が少ない。ほとんどが年度のたびに入れ替わり、それでも同じ香りを漂わせる特異な場所だと、思っている。スザクが自分を通り過ぎる人間だと思っているのと同じように、自分もアパートにある彼の私物-パジャマだとか歯ブラシだとか、なんとなく浮かれて買った揃いの食器だとか、彼の、残り香だとか-は近いうちに忽然と姿を消すものだと知っている。他よりも早い卒論の提出を終えて、自分も彼も去る者だった。行く先はもう交わらないのだろう。
「いいんです。ここで、いいんです。」
そう言って、子どもはきゅっと繋いだ手を握り締めてきた。握り返してやると、ほんの少し子どもとの距離が縮まったような気がした。
(『ママ』、どうしてこの子を置いていったんだろ。こんなに慕ってくれているのに。)
とぼとぼと、宛てもなく歩くのは先ほどと変わらない。小さな歩幅に合わせているから歩みは遅い。雪の香りのする風に子どもがふるりと震えたから、していたマフラーを外して巻いてやる。
「あったかい…。いい匂いがする。」
「俺は香水の類はつけないんだが。」
「うん。でもあったかい匂い…。」
なぜか泣きそうな顔をして子どもが言った。躊躇ったが、手を引いて公園のブランコまで歩いていく。腰を下ろして子どもを膝に乗せた。ゆっくりとブランコを揺らしながら話を聞く。
「パパはね、僕がママに似ているって言うんだ。綺麗な人だったよって言いながら、写真を見せてくれる。ママは本当に綺麗な人なんだ。黒い髪が長くて、笑った顔は優しくて。」
「ママのこと好きなんだ。」
「とっても。」
「パパのことも?」
こくんと、頷くのがわかった。先ほどから『パパ』に対する不満を口にしていたけれど、その口ぶりに暗い影は無い。父子関係はうまく行っているのだろう。ただ『ママ』だけがこの子どもの家族に欠けている。
「僕はママもパパも大好きだし、パパも僕とママのことが大好きだよ。」
「…、」
ならばなぜ三人一緒に暮らさないのだろう。一つ屋根の下で暮らしかねる何らかの理由があるのだろうか。幸せそうな家族でも裏がある世の中だ。不思議に思いはしても確かな違和感というほどのものは浮かばないのだけれど。ただ、小さな体がしがみ付いてきたから悩む前に抱きしめていた。震えている。温かい。これが命だろうか。愛おしいと思えるぬくもりは。
「ママに、会いたかったんだ。ずっと会いに行こうと思っていたんだ。」
「じゃあ、探さなくちゃ。」
今度は首を横に振る。ママを探すのを手伝って、お願い一緒にママを探して。そう頼まれて今一緒にいるのだから、断られるのは解せない。けれど、その理由はもうわかっていた。ジャリ、と近づいてくる足音に顔を上げる。それは確信だった。
「…スザク。」
ブランコに腰掛けているからだろうか。見上げたスザクは自分が知っているよりも背が高いように感じられた。濃茶のトレンチコートを着て、黙って自分たち二人を見下ろしている。
「パパ…」
「…迎えに来たよ。パパと帰ろう。」
知っている声よりも、僅かにノイズが混じったそれは押し殺したような静けさを纏って冷えた冬の空気に溶けていく。
「ママも!…ママも一緒に帰るんだっ!ね、いいでしょう?パパも、ママに会いたかったよね。ずっと我慢していたんだよね?」
膝に乗せていた子どもが飛び降りて必死の声を上げる。どうしたものかと立ち上がれば、膝元に抱きつかれて一緒に来てと涙の混じる声がする。どうしたらいいのだろう。
「だめだ。」
「っどうして…ッ」
スザクがひどく静かな声で言った。はっきりと泣き叫ぶように子どもが問う。
「だめなんだ。彼女は連れて行けない。どれだけ望もうと願おうと、彼女はここで生きなければならない人だから。」
「ぃやだっ…ママ、ねぇ一緒に行こう?僕たちと帰ろう?もう離れたくないんだ、ねぇ、まま…っ」
灰色の目が涙に潤んで深みを増したように見えた。スザクの新緑の色に似ている。俺の色はどこにあるのだろう。
そっと頭を撫でてしゃがみこむ。目の高さを合わせて覗き込むと、ぐいと涙を拭って必死に目を瞑らないよう見つめてくる瞳があった。
「行けないんだ。俺はここでしなくちゃならないことがあるから。」
「向こうでもできるよ!僕が手伝ってあげる!一緒にいてママ。パパだってママがいてくれたらもう悲しい顔はしなくてすむっ…」
「会いに行くから。」
抱きしめると小さな体が震えながらしがみついてくる。必死なその強さが、これが最後の邂逅なのだと告げていた。
「俺はお前に会いたいから。だから一緒には行けない。でも必ずもう一度会えるよ。約束しよう。」
「ふ ぇ…まま、」
小さなてのひらの小さな小指を取って指切りをする。何度拭ってやっても溢れ出す子どもの涙に来たる未来を知るけれど、それは恐怖ではなかった。
「スザク。」
名前を呼べば泣き出しそうな緑の目がこちらを向いてきて、今日大事な話があると約束を取り付けて、その約束を反故にされた失望などどこかへ消えていた。
「…ルル。」
「いい男になったじゃないか。俺にはもったいない。」
そっと伸ばされた腕に体を任せる。懐かしい体温だった。彼にもそうなのだろうかと微かに伝わる震えに思う。
「…後悔してばかりだった。僕はどうしようもないガキで、君を傷付けてばかりで、」
「でも未来の俺は幸せなんだろう。今はまだうまく笑えないんだ。」
はぁ、と、深く息を吐き出して呼吸を整えるのがわかった。回された腕が力を込めるのも。
「ごめん、ごめんルルーシュ。僕はずっと君を愛していたよ。気がつくのが遅くて、気がついてからも照れくさくて、馬鹿ばっかりしていたけど、いつだってルルーシュが僕の一番だったんだ。これからも、ずっと。」
君のいない未来でも。
囁くような最後の一言に心の芯が冷えたけれど、包み込んでくるこのぬくもりが自分のものだというのなら、遠くは無い未来に途絶えるのだろう自分の一生も捨てたものではないと思う。ぴくりと、スザクが身じろいだのを感じてその広い胸に埋めていた顔を上げると、悪戯っぽく笑う瞳と目が合った。
「今日、『僕』は走り回って君を探しているんだ。」
「そう。」
「学生がバイトで稼いだお金で買える様な安物の指輪を持って。」
「え…」
「うっかりしていて日付を間違えたんだね。今日の、君の誕生日に一世一代の告白をするつもりだったのに。」
「…ッ」
言葉の意味を理解して体が震える。涙はあいつのために取っておいてやってと言われて唇を噛み締める。いつもいつも自分だけ明るい場所に行っては自分を不安にさせて。女友達も多くて夜は帰ってこない日も少なくなくて。自分以外に好きな人がいるような言動を繰り返しては意地悪に笑って…
「そして、」
静かに頭を撫でるてのひらが、いつか自分が好きになれないのだと零してしまった夜にそっと髪を梳いてくれた優しさと同じだった。
「そして僕にやきもちを焼くんだ。誰なんだろうって、答えがわかるのは何年も後で。だからキスはできないけど…」
タッタッと駆けて来る足音が聞える。自分の名前を呼ぶ声も。
「このくらいは、ちょうどいいお灸になるんじゃないかな。」
最後にぎゅうっと抱きしめて、自分の知らない大人びた顔で笑うスザクは子どもと一緒に帰って行った。
「ルルっ!今のやつは一体…」
「俺は浮気はしない。寒いからもう帰ろう。」
「え、あ?う、うん…」
「この子に会ったんだ。俺よりもお前に似ていた。」
下腹部に、慌てて走ってきたのだろうスザクの手を引いてそう言うと、ぽかんと間抜けな顔が返ってきた。
「へ?………これ、」
ぴしりと見事に固まった後、ごそごそとコートのポケットから取り出した小さな箱を開けてぐいと手を掴まれる。
「僕と、結婚してください。」
fin.