子どもたちの声が聞える。抜けるような空に高く響き渡る笑い声。今は小さな子等もいずれは成長しこの場所を巣立つだろう。誰にも平等に流れる時の理は日々の欠片を繋ぎ合わせて一つの世界を紡いでゆく。
寄る辺のない欠片は?記憶の欠片は…
はじめまして、ルルーシュ!-5
「こんにちは。元気だった?シャーリーとルルーシュはどうしているかしら?」
ミレイはあの孤児院を訪ねていた。駆け寄ってくる子どもたちの顔が少しずつ大人びてきているような気がする。季節は移ろい人は変わりながら成長する。
「こっちだよお兄ちゃん!」
一人の少年に手を引かれて、白い髪の隻眼の青年が歩いてきた。少し足元が覚束ない。そっと支えた身体はまた薄くなっていた。ありがとうございますと、穏やかな声が耳に届く。
「はじめまして。ルルーシュと言います。あなたは…金の髪、ブルーの瞳……ミレイ・アッシュフォードさんで、よろしいでしょうか?」
手元の端末を操作して、画像入りのデータと照会する。
「あたり。『はじめまして』はおかしいわ、ルルーシュ。こんにちは。シャーリーは元気?」
苦笑しながら訂正するミレイに、すまなそうに俯いた顔がぱっと明るくなる。孤児院の入り口を指差して歩き出す。
「ええ。こちらへどうぞ。さっきまで一緒にクッキーを焼いていたんです。みんなも、お茶の時間だよ。」
きゃあきゃあと子どもたちがルルーシュに纏わりつく。彼は昔から、子どもには無条件に優しかった。両の手を取られながら、しかし明らかに加減をして引いて歩く子どもたちに優しく目を細めている。広間にはテーブルにクッキーを載せた皿を並べ、テーポットを傾けるシャーリーの姿があった。
「久しぶりです、会長。今日は他のみんなは?」
「リヴァルは学校、スザクは軍務。忙しいみたいね。」
ナナリーも来たがったのだけれど、今日は検査のある日だからと残念そうに見送ってくれた。自分のことを忘れてしまった兄を前にしても、彼女は微笑むだけだった。ルルーシュの時間はごくごく短い時間で巻き戻される。150分でリセット。彼の世界はひどく小さなものなのだろう。それは彼を狭い場所に繋ぎとめ拘束し、同時に世界の闇には手の届かない場所に閉じ込める。もう悲しいことをその瞳に映さないように、瞳を閉ざした彼女は忘却の川のほとりで一人佇む兄を見守っていた。最後に、ほんの少しの、優しい世界。嬉しいのだと、一筋の涙。
「にしても、張り紙だらけねぇ。ルルちゃんこんなの全部読みきれるの?」
ミレイは椅子に腰掛け部屋の壁一面にちりばめられたメモ用紙を見回した。ルルーシュの記憶の欠片だ。『ジョンは眼鏡をかけた男の子』『ナンシーはお下げ髪の女の子』『ジェインとウィルは双子の兄妹』『ボブは本が好き』『朝ごはんは7時、昼は12時、夜は6時。寝るのは10時。』
「いつも眺めていたら覚えられるかもしれないと思って。でもさっぱりなんです。」
僅かに苦い笑顔でルルーシュが答えた。彼は一度頭の中を、まるで水で洗い流されるように白く塗り替えられてしまうのだと言う。ザアァ-と記憶が遠のいていく瞬間が何よりこわいのだと、一度だけ話してくれたことがあるとシャーリーが言っていた。すり抜けていく大切な記憶。己さえも彼の手には残らない。初期化されたコンピューターのように、彼には最低限の情報だけがインプットされている。
一、記憶の持続時間
二、自分の名前
三、ともに在るべき人
ミレイたちが固唾を呑んで見守る中、ルルーシュはゆっくりと覚醒した。
「…ここは?」
「カスタリアホーム。孤児院だよ。ルルはここで、私と一緒に子どもたちの世話をしているの。」
「あなたは?」
「シャーリー・フェネット。ルルのね、友だち。はじめまして。」
そう言ってシャーリーはにっこり笑ったのだ。友達だと、はじめましてと、握手の手を差し出した彼女の顔を見てミレイは涙が零れそうになった。ミレイは彼女の気持ちを知っていた。彼女がどんなに彼を想っていたか。恋人だと言いたいだろう、ずっと傍にいたのだと、今一番傍にいるのは自分だと伝えたいだろう。ルルーシュは母親を見つけた子どもの顔で破顔した。不安に揺れる表情をくしゃりと音を立てて握りつぶすように、そう、すぐに訪れる喪失の瞬間の恐怖を捩じ伏せるように。ルルーシュはシャーリーを見て微笑んだ。それは愛だ。自分すら失くして彼女に向けた彼の想いは一つの確かな愛だった。望めば、きっと、花開くはずの。けれど決して咲き誇ることのない硬い蕾の、綻ぶ時間の与えられない未熟なままの。
「会長には、私がルルの母親に見えますか?」
ふとシャーリーが言った。ルルーシュはじっと子どもたちを見つめて、何やかやとまたメモを増やしては壁に貼り付けている。散りばめられた記憶の欠片。彼から零れ出た、帰ることのないパズルのピース。もう白い壁には隙間がない。一番多くのメモが貼り止められているのは窓の向かい正面だ。ミレイは一つ一つそれらの文字を追いながら問いを考えた。
『シャーリー。ライトブラウンの髪、オリーブの目。』
「そうねぇ。前来たときに、子どもたちと一緒になって水浴びしてたわね、ルルちゃんが。」
『たぶん同い年の女の子。』
「ええ。風邪引きやすくて泳ぐのも得意じゃないくせに、せがまれたらもう子どもの仲間入り。」
『泳ぐのが上手。本当は、歌も。』
「ルルちゃんがこんなに子守がうまいなんて知らなかったわ。小さい子の着替えの手伝いなんて、これはお手の物なんだろうけど。」
『逆のボタンを留めてあげるのが苦手。』
「そうそう。だから早く着替えなさいって言うのに、自分が後回しになっちゃって。私、ちょっと怒っちゃいました。」
『怒ると少しだけこわい。』
「この間の嵐の日、大丈夫だった?」
「…夜でしたから、子どもたちの中にはこわがる子もいて、」
「大人がこわがってちゃどうしようもないわよねぇ?」
『雷が嫌い。』
「……ルルが、抱きしめていてくれました。片腕はちっちゃい子たちに貸してあげたんですからね!」
『意地っ張り。』
「シャーリー。」
ミレイは名前を呼んで視線を合わせた。カチリと、柱時計が時を刻む音。二人に、子どもたちに背中を向け、壁に手をついたルルーシュがゆっくりと膝を折る。ミレイの視線を振り切るようにシャーリーが駆け寄って腕に抱き取る。
「言いなさい、ルルーシュに。」
「ジョン、メモして。三時二十八分。…またサイクルが早くなってる。」
「シャーリー。言うのよ、ルルーシュに、あなたは私の大切な人なんだって。」
「一週間で二分、始めのころの半分も記憶が保っていない…」
「お姉ちゃん、お兄ちゃんこのまま目が覚めなくなっちゃうの…?」
「最後まで、一緒に、傍にいるのは自分なんだって、言いなさい!あなたたちこのままじゃ、一歩も前に進めないままっ…ッ、」
ルルーシュは少しずつ記憶を零しながら弱っていった。今はもう水浴びなど出来ない。そろりそろりと真っ直ぐに歩くのがやっとなのだ。声も細く途切れがちで、時折乱れる脈にか荒息をつく。一緒に焼いたのだと言うクッキーも一枚口に運んでそれきりだ。子どもたちが心配して、だから彼の周りにはいつも誰かが寄り添っている。
「…いいんです。これで。私たちは“ともだち”。ずっとそうだったじゃないですか…会長だって、ずっと、見てきたでしょう?」
「ええ見てきたわ!あんたがルルちゃんのこと大好きだったことも、忘れてしまって辛かったことも、今はもっともっと大好きでっ…ルルちゃんもあんたのことを愛してるってッ見てりゃあ誰でもわかるわよ!」
ミレイの白い頬を涙が伝った。大好きだった皇子様。大好きだった親友。どうして幸せになれないの。
「私に、そんな資格はありません。これでいいんです。」
静かな、感情を押し殺した声に唇を噛み締める。
「シャーリー、君はどうしてこいつの世話なんてしてるんだ?こいつはゼロだったんだぞ。君のお父さんを殺した、たくさんの人を殺し」
「私もだよ。私も殺した。」
解せないと言う顔で、ルルーシュと笑い合ったシャーリーに問いかけたのはスザクだった。感情を整理し切れていないのか、終始表情が硬かった。だがシャーリーの淡々とした声がそれを遮る。
「…なに?」
「私ね、本当はルルがゼロだって、お父さんを殺したのはゼロだって、知ってたんだ。だからこの手でお父さんの仇を討とうとした。ルルを、殺そうとした。」
「でも、でもこいつはこうして生きているじゃないか!」
「まだ話は終わってないでしょ。」
苦笑しながらの告白に、皆がシンと静まり返った。
私ね、ゼロの姿をしたルルを銃で撃とうとして、できなかった。どうしてもできなかった。立ち尽くしていると軍の人が来てルルのことをどうにかしようとしたから、持っていた銃でその人を撃って、海に捨てた。こわかったよ。お父さんの仇を討つどころか庇って人を殺してしまった。お父さんよりも好きな人を取った。自分が汚い人間だって思い知らされるようで辛くて…悩んで悩んで、ナリタまで一人で足を伸ばしたそこで、嫌な私を全部覗き込んで来る人に会って。もう頭がぐちゃぐちゃで死んで全部なかったことにしたくなったの。
ルルも一緒に。
ルル、探しに来てくれてね。私、ルルを撃っちゃった。でも弾は当らなくて。…よかったと思った。心の底から安心した。そして後悔も。私ねぇ、お父さんが死んで悲しくて、ルルがまだゼロだと知らなかった時に、ルルに無理やりキスしたの。悲しくて誰かに慰めてもらいたかった。苦しくて誰かに助けてもらいたかった。それがルルだとよかった。ルルじゃないと嫌だった。…ずるいよね。お父さんが死んだことを、好きな人を手に入れる理由にしようとした。ずるくて汚い女。ルルはそっと抱きしめてくれただけだった。唇は合わせたまま。あたたかいだけのキスだったよ。優しいだけのぬくもりだった。失わなくて、よかった。
そんなことを考えながら私、抱きしめてくれたルルの腕の中で泣きじゃくってた。駄々っ子みたいに、自分の過ちをルルにぶつけながら、どうしたらいいかわからなくて。
「ルル、全部俺のせいだって言うの。私の罪は全部俺のものだから、私は全部忘れていいって。ごめんって謝りながら、……私、だめって、叫んだのに。本当にぜんぶ、ルルごと、持って行っちゃった。あとはみんなの知ってるとおり。スザク君。ルルが本当に冷徹なゼロだったら、正体を知ってしまった私を殺してもおかしくなかった。ギアスで、私のことをもっと都合のいいように操ってもよかった。ルルは確かに罪を犯したけど。私ルルが好きなの。大切なの。この人の傍にいたい。何があっても。そのためなら、どんなずるい女にだってなってやるわ。」
「わたしはっ ルルを利用してるッ…私、言ったんです。C.C.に願えと言われたときに、『生まれ変わって私と一緒に生きてほしい』って。ルルはそれに応えてくれた。本当はきっと、もう死んでいるはずの人なんです。仲間だった…カレンたちと一緒に、もう楽になっていていいはずなんです。私は天国なんて信じない、地獄だってあるはずない。生まれ変わることなんてできるわけがない。今の生が全てです。その最後の時間を、繰り返し失われる恐怖に突き落としながら…知ってるのに、どんなにこわいか知っているのにっ…きっと私に都合の良いように、コトダマがはたらいたんでしょう。」
「…どうして?」
ミレイは激昂するシャーリーの言葉にそっと問を返した。もうすぐルルーシュが覚醒する。リセットされた記憶。消し去られた思い出。シャーリーは一度深く息を吐き出して言った。
「わたし、しあわせになるのが、こわかった。」
落とすような声が、部屋に響いた。彼女の視線の先にはルルーシュの手書きの文字。
『シャーリーは甘いものが好き。』『かわいものも好き。今度テディ・ベアを作ってあげよう。』『洗濯をするのも好き。でもアイロンがけは苦手だから俺が。』『カレンダーを見ること。○月◆日がシャーリーの誕生日。この日は子どもたちと一緒に…この先は自分の部屋の、机の引き出しのメモを見ること。シャーリーに見つからないように。』
「誕生日、一月前でした。ルル、もうあんまり長い時間立っていられなくなっていて、記憶は一時間と少ししかもたなくて。でもすごくたくさんのメモをキッチンに貼って、子どもたちには部屋の飾り付けを頼んで。『シャーリーはパステルカラーが好きだから、折り紙と、いい香りのする花でテーブルを飾って。』とか、『ごちそうを作るのは難しいけど、シャーリーの好きな苺のタルトをデザートに』と、か…『ろうそく』ッふ ぇ…っ『ろうそくは19本、20本?…俺もシャーリーに追いつけたらいいのに』、『ごめん』ってッ……ぜんぶ、ぜんぶ私の鏡台の引き出しに、しまってあります。たからものです。毎晩寝る前に読み返しては…へへ、わたし、なんて幸せなんだろうと、思って。こわくなります。」
ミレイが静かに肩を抱いた。
「いいのよ。あんたたち、幸せにならなきゃだめよ。ミレイさんが許す!」
「…ありがとうございます、会長。でも私、あの時、ルルに一緒に生きてって言った時、無意識のうちに、自分の罪悪感に負けて、ルルに…だからルル、壊れたビデオテープみたいになっちゃって。あんなに頭の良かった人なのに、あんなに、何でも覚えていて、…忘れてほしいことまでしっかり覚えているような、意地悪なやつだったのに…」
長い睫がふるりと揺れた。
「意地悪でかっこつけでサボリ魔で。人を馬鹿にしたような顔で飄々と笑っているのよね。でも、ほら…」
稀有な夜明けの色がゆっくりと光を取り戻す。まっさらな色。無垢な子どもの瞳。こんなルルーシュは見たことがなかった。シャーリーの顔を見とめてふわりと綻ぶ。
「ね、ルルちゃん、あんたの前ではこんなに幸せそうに笑うじゃない。私も付き合い長いけど、こんなに綺麗に笑うルルーシュは見たことないわ。」
あなたは?と、細い声が聞える。
「…そうですね。ルルのこんな顔、私くらいしか見られませんよね。自慢したいくらい…だから、だから……これで、十分幸せ。こわいくらい幸せです。映画は、二時間でキスもできるし、花嫁にもなれるけど…」
答えを待つルルーシュの静かな瞳に微笑みかける。長い指がそっと涙を拭ってくれた。笑わなくちゃ。幸せだもの。現実(ほんとう)の世界で、小さな世界で、あなたと二人。
「はじめまして、ルル。私の名前はシャーリー・フェネット。あなたの、おともだち!」
届く限りの幸せをあなたと一緒に。ルル。大切な、おともだち。
fin.