「――…で、そのあと彼はどうしたの?」
0と3のさようなら
バスルームから戻ってきたゼロは、憑き物が落ちたように晴れやかな顔をしていた。何もかも熱い湯に流してしまったという風に、屈託なくジノに笑いかけていた。
「朝日が見えるかもしれないぞ」
いつもよりも時間をかけていたせいか、もう空は薄っすらと白んでいる。空調のレベルを上げた彼は、気が利かないジノを責めるでもなく隣に腰を下ろして窓の外を見つめた。
「……最初に言った台詞、撤回する気はないのかい?」
「最初?」
「これで最後にしようっていう」
「ああ、気は変わらないよ。お前はしばらく仕事に集中しろ」
「よく知らないくせに」
「そりゃ知らないさ。俺は普通のサラリーマンじゃないからな。でもサービス業だぞ、接客の経験もある」
「へぇ。愛想笑いをしているあなたって想像がつかないな」
きょとんと目を瞬いたゼロは、ジノの言葉が腑に落ちないようだった。
「そうか?問題なくできたつもりだけど」
「わかってないなぁ。いや、俺が知らないだけで実は器用なのか…少なくとも、率先して愛想笑い浮かべて、思いつきのサービスができるようには思えない」
「いや、そういうの、必要ないから」
「ふぅん…俺たちはあるんだよ。先生たちに信用してもらわなくちゃならないからね。新人は大変だよ。勝手がわからなくてうかうかしている内に競合他社に注文持っていかれるし、優等生でいようと思ったらあっという間に存在感が霞んじまう。競争だからね。勘と度胸と適当な狡さがなくちゃやって行かれない。俺の一つ上の先輩に、人の心を掴むのがすごくうまい人がいた」
ジノはスザクのことを思い出しながら話していた。
「気が利くし優しいし頭も良かった。入社早々うちの支店のナンバーワンになって、支店長の目に留まって、そのお嬢さんと御見合い結婚したんだよ。幸せそうに見えたんだけど、何かあったんだろうな。二年足らずで離婚してしまって、職場に居辛かったのか俺に担当を引き継いだあとに辞めてしまった。確かに忙しい仕事だし、成績を上げようと思ったら家なんて寝るために帰るようなものだ。キャリアアップしたければ専門知識を身につけなければならないし、転勤だって文句を言っていられない。それでも、あんな人でも家庭を守るのは難しいんだなって思うと、なんだか虚しくなっちゃってさ」
自分は何を言っているんだろうと苦笑する。こんな話をするつもりじゃなかった。ただ彼の言う『まっとうな人間』でも失敗はするし、優しい人間ほど狡くはなれないのだと伝えたかった。スザクと彼はジノの目から見て似たところはないが、ジノは二人ともが好きである。好意の種類は違うが関係を絶たれるのが嫌だった。ゼロの場合はごく一部の気弱な部分ばかりを見せられていたものだから尚更不安で、たぶん、今回のことがあった今も彼はジノのためを思って離れようと言ってくれている。もっと自分を利用してくれてもいいと思うのに、彼の優しさと矜持が、ジノにもう引き返せと言っている。なんだか虚しい、そう、悲しい。
「ジノ」
まだひどく掠れて聞き取りにくい声でゼロが名前を呼んだ。
「その、先輩。たとえばどんなことをして人の心を掴むんだ?」
「そうだなぁ。ちょっとしたことなんだよ。身だしなみに気をつけたり、礼状を間をおかずにしたためたり、向こうがほしいと言ってくる情報をあらかじめ用意しておいたり。ライバルにも礼儀正しかったり。あと、仲良くなった取引先の人が誕生日だったりしたら、花とか、ケーキとか、ワインを贈ったりする」
「それって賄賂?」
「いーや、必要経費。でも自腹」
「大変そうだな」
「まああの先輩は笑顔がよかった。にっこり笑うと人懐こそうで優しそうで、あれこれ考えないで信頼したくなるような人だった」
「仕事辞めて、どこに行ったんだろうな」
「わからない。まだ決めていないって言っていた。他社に転籍する人も多いけど、たぶんもうこっちには戻ってこないつもりだろう。大学に戻るのかもしれないなぁ」
しんみりとそう応えたジノに、ゼロは少しして寂しいのか、と訊いた。
「…そうかもしれない」
ジノはよく考えた。折しも会社が経費削減のために営業所を廃止して完全なモバイルワークに移行したばかりだった。会社の仲間と顔を合わせるのは月に一度の研修日と営業所会議のある日だけ。50程の医療施設と60名前後の医師たちとの面談を除けば、私生活での会話は皆無に等しい。仕事のことを考えずに会うことができるのは、賑やかな学生時代を送ったジノには驚くべきことにゼロだけであった。スザクは頑張っているジノを誉めてくれたかもしれないが、ジノはきっと素直に喜べないだろう。どうしてゼロに惹かれたのかを、目を瞑って考える。容姿じゃなくて、影のある物言いじゃなくて、そう、彼は兄だと言った。妹がいるのだと言っていた。ジノは四男坊の末っ子である。家を出て独り立ちして、仕事に打ち込んで、親しくしてくれた先輩は会社を去った。寂しかった。
「……」
ジノは黙って、ゼロの腰に抱きついた。頭をまだ湯の温かさを留めている腿に乗せる。怒ってはいないかと様子を窺えば、彼はやわらかい笑みを浮かべてジノを見下ろしていた。甘えん坊だなと声が聞えるようだった。ゆっくりと髪を撫でてくれるのにまどろみながら、どれくらい時間が経ったのだろう。
ピルルルルルルルルッ
ピルルルルルルルルッ
「 俺だ、」
言ってゼロは横になっていた体を起して上着のポケットから携帯電話を取り出した。二人で会っている時に電話が鳴るのは初めてだ。
「――はい、ええ、俺です。今日?……大丈夫ですよ、行けます。七時には着きますから、はい…はい。ピックはいいです。車で行きますから、はい、では。
仕事だ。ちょっとLAまで行って来る」
「ほんと、あなたって何してる人なんですか」
ジノの問いには答えず、急いで身支度を整えたゼロは最後に扉の前で振り返った。
「ジノ、今度会うときは友人として会おう。年甲斐もなく悩むのはもうやめた。ありがとうと言っておく。いつか、お前の憧れの先輩と三人で話がしたいな」
それだけ言って、にこりと笑った彼は、もう振り返らずに行ってしまった。
「――…あれが最後だ。以来あの人とは会っていない」
◇◆◇◆◇
ジノはそう締めくくってよく冷えた酒を口に運んだ。接待やら何やらで無駄に肥えてしまった舌ではうまいものも減ってしまったが、懐かしい顔と飲む酒は別である。あれから六年が経過して、生来の幼い顔立ちに渋みが加わった、ような気がするスザクの顔を見つめる。
「なんて言ったらいいのかな。気まぐれで、ブリタニアの空のように読めないところのある人だった。今にして思えば確かにあそこで別れて正解だったんだ。先輩がいなくなって仕事は二倍近くに増えたし、あの頃既に合併の話が出ていたから、専門性で勝負するなら腹を決めなければならなかった」
「オンコロジーの方に進みたいって言っていたね」
スザクは医学の世界で進歩の著しい抗がん剤分野でスペシャリストになりたいのだと言っていたジノの言葉を思い出した。内資よりも外資の方が担当領域が狭く、専門性が高い。
「ええ。そりゃあ、まるきり仕事仕事で人生回るわけもないしプライベートも大事だと思うけど、俺はまだ若かったし踏ん張りどころだと思ったんですよ。だから、一緒にいたらあのままどんどん依存してしまいそうだったあの人と別れたのは必要なことだったんです」
「でも、たまに思い出して会いたくなる?」
「先輩、エスパーですね。神社の息子って人の心も読むんですか」
「誰でもわかるよ。文脈と、その顔を見たらね」
ジノは顔に手をやって苦笑した。
「お恥ずかしい。でもあの頃、たぶん俺もあの人も、たぶん先輩も辛い時期だったから、そういう時に出会った人ってきっと一生忘れられないんでしょうね」
「そうだろうさ。僕だって、忘れられない人がいる。ジノ、君もそのゼロって男を探したんだろう」
スザクは腕を組んで遠い目をした。あの日、スザクの誕生日を祝福してくれた声の主。今でもずっと探している。ルルーシュを思う気持ちとは別の感情で思い続けてきた。彼がいなければ、自分はルルーシュに会うこともなく、空を飛ぶこともなかっただろう。
「探しましたよ、それは。でもだめですよ、情報が少なすぎた。クラブのマスターに訊いても教えてくれないし、そうとわかったらあの店に行くこともなくなって。最初はすっきり別れたつもりで考えないようにしていたんです。だから唯一知っていた携帯電話の番号も使うことがなくなって、一年が過ぎた頃だったかな。仕事も順調で、自分に自信がついたから、久しぶりにどきどきしながら電話をかけたんです。なのに、繋がらないんですよ」
ジノは歯がゆそうにそう言った。いくら掛けなおしても圏外で、国外に出ているのかとも考えたのだが一月もずっとそうなら思い直さざるを得ない。
「ああ、俺、切られちゃったのかなって思いました。遊ばれていたとは思わないけど、一年やそこらで、切り離してしまえる人間だったんだなって。
――あの人は決して冷たい人じゃない。ただ自分を軽んじるところがどこかにあった。だから、俺、友人としてでもいから連絡を取っておくべきだったんだと後悔したんです。一年も音沙汰なかったら、普通忘れられてしまったと思うじゃないですか。あの人の場合は特に、寂しがり屋だったから……諦めちゃうんじゃないかって。先輩」
ジノは姿勢を正してスザクの目を見た。
「あの人に会わせてくれるって言いましたよね」
「あ、うん、」
「いつでもいいです。都合つけて飛んできますから。ゼロに、あの人に会わせてください」