「ああまた刺されるかもって、そんな恐怖じゃないんだ。痛いとか苦しいとか、そんなんじゃなくて。」
トントンと、まな板の上で刻まれる音を背中で聞きながらルルーシュは言った。風呂から上ってキッチンカウンターのそばに置かれた椅子の上。片膝を立てて座りながらぽつりと話し出した内容は、一緒に暮らし始めて二月ほど。初めて耳にするものだった。彼は今まで自分の胸のうちに巣食うトラウマを、あえて呼び起こそうとはしなかった。ただ一度を除いては。
スザクが些か強引に同居を申し出、恐縮しながらのルルーシュの家に転がり込む前のこと。

二人で空の下4

*******


「もしかして、包丁とかも、だめ?」
犯人の姿がフラッシュバックするのだと情けなさそうに呟き、ようやく落ち着いたルルーシュをそっとベッドの上に戻し、スザクは躊躇いながら訊ねた。
「…ああ、まぁ。あんまり積極的に見たいものでもないし触りたいものでもないな。」
いい年をした男が、同じ男にしがみ付いてしまったという照れもあるのかばつが悪そうに顔を背けて、ルルーシュはぐしゃりと髪を掻き揚げた。
「俺の料理の腕はプロ級だったんだぞ。なっさけな…。スザク、ちょっとそこの果物ナイフ取ってくれないか。引き出しに入っている。」
ベッドサイドの棚を指差されて、やや戸惑ってスザクは言った。
「大丈夫?無理に試さなくても、」
「いいから。一人のときは怖くて試せない。…情けないよなぁ。」
はは、と気弱そうに苦笑するのに首を振って、小振りのナイフを取り出す。ナナリーが生けているのか、いつも白い花がルルーシュの部屋には飾られていて。差し込む夕日に今は橙に染められたそれを横目に見ながらゆっくりとキャップを外す。柄を向けて差し出すと、ルルーシュが震える指でそれを受け取ろうとしたから遮った。
「…なんで、寄越せよ。」
「だめ。」
「寄越せって。」
「いやだ。」
「いいからっ!」
「だめだって!う わ、ルルーシュッ!?」
「ぅ、くッ…」
ガタンッ!カツン、ドサッ---
一瞬、瞬きする間に身を乗り出してナイフを奪おうとしたルルーシュが、バランスを崩してベッドから、今度こそ落ちた。
先ほどよりもすぐ近くにいたわけだから、咄嗟に受け止める。軽い身体。どこもかしこも骨が当る。空いている片手でナイフを遠くに弾き飛ばして、両腕でまた。ルルーシュの背を抱きしめたら、今度はさっきのように落ち着いてはくれなかった。遠くにひぐらしの鳴く声が聞える。もう夕方だ。白い病室の壁が橙色に染まりかけていた。
「離せ、」
「嫌だ。」
「重いだろう、」
「重くなんてないよ。」
「ッ…」
ああ、そうか。失敗した。ばかだな、僕。
「ごめん。」
「もう、黙れよッ…」
「うん、ごめん。」
ルルーシュは今、思うようにならない心と身体に悔しくて。いつも黙って笑っていたけど、きっとずっと悔しくて。ようやく少し、吐き出しているだけだ。
「…今、全力で握っている。」
「うん…。」
僕の二の腕を、ルルーシュの手が握り締めていた。握り締めようと、力を込めていた。少しも痛くない。軽く引き留められているような、そんな程度の。
「こんなんじゃ、操縦桿を握れない。オンオフの操作だってできない。フライトバッグだって、持ち上げられない。」
「うん、そうだね。」
「ステーションからは、空がよく見えるんだ。」
「空?」
「ああ。空港も近い。高度を落としてくる飛行機がよく見える。」
「ええ。」
「グロースター727ダッシュ200。エンジンは後ろに三発。トリプル・スロッテッド・フラップ。低速翼と高速翼を最初に装備したのはこの機体だ。まだ、三人乗務で。
探したけど、見つからなかった。」
「初期のジェット機導入の走りでしたから、老朽化が進んで順次退役が決まりました。今は準後継機の位置づけの747ダッシュ400が国内線の主力です。727シリーズはもう飛んでいません。」
「…俺が、機長として最初に受領した機体だった。」
「はい。」
「今は、着陸だって、オートがメインなんだろ。」
「人間よりもうまいくらいですよ。雨の日なんか、オートパイロットに任せたほうが安心だ。」
ゆっくりと、ルルーシュが顔を上げた。今日は仕事帰りに、制服のまま来たのだった。細い指が、旅客機操縦士であることを示す徽章を辿る。三本の金線。機長には、一本足りない。
「…戻れるかな。」
「必ず。」
「空、飛びたいよ。」
「一緒に飛びましょう。残念なことに僕、まだ当分コーパイやってますから。」
「あはは、待っていてくれるのか。」
「イエス、キャプテン。」

「…ありがとう。」
沈黙の落ちた室内を、蝉の声と茜色の夕日が満たしていた。





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