「ただいま。…誰もいるわけないよな。」
シンと静まり返った家の中。重い足取りで自室まで辿り着く。襟元を緩めるのも面倒で、そのままベッドに身を投げた。

遠いばかりの空でした11

スザクのことは、好きだった。
人当たりがよくて、話していて寛げるやつで、少し強引なところも、それが彼の優しさによるものだと分かっていたから好ましかった。惹かれていたと、言ってしまってもよいだろう。躊躇うのは、ただ申し訳ないと思う気持ちと決まりの悪さが先に立つからだ。
「俺なんかに構わなければいいのに。披露宴に呼ばれたら、スピーチだってしてやるのにさー…」
ごろりと寝返りを打って、中々訪れない睡魔に苛々する。三日、うとうとするだけの夜を過ごしてきた。帰り着く頃には足元が覚束ないほど疲労がたまっていたはずなのに、目だけは冴えて頭はぐるぐると思考を停滞させる。
「やだな。こんな日は来るんだよなぁ…。」
指一本も動かせずにもがく、意識だけははっきりしている時間。金縛りは癖になる人間もいるというけれど、退院してからの自分もだいぶ取り憑かれていると思う。霊だの何だの、自分が身体を抜け出してスザクのところへ彷徨いついたことを棚に上げて、ルルーシュはその原因をよく言われるように心身の疲労度の差であると考えていた。走ってこようか。
「 っ、」
起き上がろうとしてぐらついた。ずるずると床に座り込んでぼんやりと部屋の中を見渡す。ライトはつけていない。外の街灯だけが差し込む部屋で、扇からもらった酒が目に付いた。
「『彼と飲め』、ね。追い出しちゃったんだけどな。避難させたって言う方が適切かな。」
キュルリと音を立てて栓を開ける。ベッドサイドに常備しているグラスを取り上げて好きでもない日本酒を一杯に注ぐ。飲んだら嫌な夢を見るような気がしたが、このまま眠れない夜を過ごすことに比べればぬるいような気がした。一人だけの家で眠れなくなったのは、いつからだったろうか。
「まずい…もう一杯、は…やめとくか。」
昔見たような気がするコマーシャルを真似て空になったグラスを見つめてみたが、ゆらりと二重に見えたから大人しくベッドに戻ることにする。見上げた天井がくるくると回っていた。
スザクのことは好きだった。LOVEの意味で好きだった。扇のことは八年も前に終わっている。けじめをつけたのはつい先ほどだけれど、未練も何もかも、扇に対してははじめから持ってはいなかった。シュナイゼルとも、ずるずると関係を続けてしまったが別れる時は互いにきっぱり切れたのだ。少しは落ち込みもしたけれど、いつか来る別離だと心得ていたから清々したと、言ってしまえば気持ちも素直に頷ける。他にも何人か見知った男はいたけれど、別れることを前提に持った付き合いは寂しくもあり気楽でもあり、自分はこうして一生通り過ぎてゆく人間と関わって生きてゆくのだと思っていた。今だって思っている。一人の家に気ままに暮らして、待つ人もなく日々を過ごし、死ぬときは優しい妹一人が泣いてくれればそれはどんなに幸せな一生だろうと思っていた。静かで平和で、ほんの少しだけ寂しい。
結婚を望まず独身を貫く人間は一昔前と比べれば格段に多くなったけれど、寄り添う相手を持たないと言うことはそういうことだった。そして子を望めないということも寂寥感に拍車をかける。身体的な理由で授かることの出来ない夫婦もいるけれど、それとはまた別の意味でルルーシュはそっと静かに瞼を閉じた。女性ではなく男性、抱くのではなく抱かれることを選んだのは自分である。どうしても無理なのか、嫌悪でも抱くのか、突き詰めれば否であろう。家庭を持とうと思えば持てるのだ。しかし今自分は一人を選んでいる。その選択こそがルルーシュに引け目を感じさせ、明らかな好意を寄せてくれるスザクに対しての罪悪感を抱かせる。
「戻れるなら戻ったほうがいいんだ。一人ぼっちの老後はきっと寂しい。それに同性を選ぶなんて、きっと自分勝手な性格の表れなんだ。」
たぶん、自分は流されたい人間なのだ。何事も自分で決めることに不安を感じる。子どもの頃からそうだった。従兄弟にベッドへ沈められた時も、痛みに堪らず呻いた時も、訳がわからず何物かも定かでない喪失に涙を流した時も、思考の根底には嫌われたくないという思いがあったし、その思いは切実で、相手が満足げに笑うのなら何もかも飲み込む方が楽だった。思えば自分を見下ろして嬉しそうに微笑む従兄弟の顔が見たくて、大人になっても関係を続けていたのだと思う。相手にイニチアチブを持たせておけば、嫌われる可能性も失敗する可能性も減じるのだと信じていた。稀に迷いながら手を伸ばしてくる人間もいたから油断はできなかったけれど、自分を委ねてしまえる確かな手はいつだって心地よかった。そんな弱い自分が嫌で、責任がほしくて今の、数百人の命を預かる旅客機機長の職を目指したのだと思い返してみて、それは違うと首を振る。少しずつだが眠りに近づいている。ざわざわと嫌な予感が背筋を這い上がるけれど、もう腕も思うように上らない。ルルーシュは少しでも恐怖を押さえ込もうと抜けるような空を思い浮かべて目を細めた。
「大きくて、真っ青で…街の明かりはちっぽけで…」
世界を見渡せるようなパノラマスカイ。飛ぶことは、ただ純粋に望んだ仕事だった。初めて自分で選んだ、自分のためだけの未来だった。夢中で勉強して、一日でも早く、一秒でも長く空を飛んでいたくて努力を重ねて。三本線、四本線と憧れた金糸の制服に袖を通したときは嬉しく手仕方がなかった。もう自分の力で生きていける、そのこと以上に目の前に広がる世界が誇らしくて。この空があれば一人でだって生きていけると信じていた。
「ッ ぅ…」
足元から忍び寄ってくるざわつく感覚。上から押さえつけられるような痺れ。しまった。酒など飲むのではなかった。いや横になったことが失敗か。でももう座っているにも疲れすぎていて。
「は…ぁ、」
声など出てはいないのだろう。せわしないと感じている自分の呼吸ですら乱れているのかどうか。全身を覆う圧迫感と気怠感、動けないことへの恐怖と目まぐるしく回転する思考に攫われる意識。
『ランウェイ36で計器着陸---』
『ヘディングファイブゼロ、ファイナルコースにインターセプト---』
…そうだ、あの時ももう体が重くて、瞼を持ち上げているのに必死で…
『フラップ、トウェンティ…グライドスロープ、アライブ、ビーム・キャプチャー---』
オートパイロットが使えずマニュアルでの着陸に、嫌な汗が全身を濡らしていくのすら意識の外だった。引きずり込まれるような眠りの淵に抗って、操縦桿を握りこんだ。立て直した機体の加速度と意志の戦い。絶対に落とすものかとそれだけを考えて前だけを見据えた、あの一瞬。接地をシートから伝わる振動で感じ取り、リバースレバーを引き上げブレーキペダルを踏みつける。視界が静止した滑走路を捉えた瞬間に意識が途絶えた。
そして広がった静寂。呼び声に応える人はない。真っ暗な闇の中で一人ぼっち。ふわふわと実体のない浮遊感に足元を掬われるような恐怖を感じながら必死にもがく。動けない、誰もいない、怖い、いやだ!
狭い箱の中に閉じ込められたような、それともどこまでも果てのない場所に取り残されたような、心細いなどと片付けるのは過ぎた寂寥感と焦燥感が胸に焼き付いて離れない。
誰か助けて、ここから出して。この終わりのない孤独から救い出して!それが無理なら終わらせてくれ殺してくれ…夢も見ない眠りに俺を落として…暗闇は嫌いだ、ここはこんなにも寒くて狭くて広くてひどく恐ろしい。いやだいやだいやだいやだいやだ動けない何も見えない感じない違う寒い寒い怖い助けて誰か誰か誰かだれ、か…

--ュ、

ふと気づけば空の上にいた。耳に馴染んだ機械の音。懐かしいコックピットで一人の若いパイロットが悪戦苦闘していた。思わず声を掛けてしまって、彼はそれに応えてくれたのだ。嬉しくて涙が零れそうになるのを堪えることができたのはただ一つ譲れなかった誇りのため。あなたがいてくれてよかったと、向けられた信頼の眼差しに応えることができるのならもう暗闇すら怖くないと思えた。

--ーシュ、

けれど彼の周りはいつも明るくて、探せばいつも迷いなく辿り着くことができてそして…

「ルルーシュッ!」
こうして、闇から掬い上げてくれたから。
「す、ざく…」
もうこの手を、放したく、ない。



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