遠いばかりの空でした9
「何度も見舞いに行ったよ。お前、ちっとも目を覚まさないし。」
「あはは、すみません。花、どうもありがとうございました。でも病院に白い花はやめたほうがいいですよ。」
もっと華やかなものにしないとと、七年ぶりに酒を酌み交わす教え子は笑った。最後にこの顔を見た頃よりも、ほんの少しだけ歳を重ねたように見える。眠っていたからか、それとも今の生活がそうさせるのか、七年とういう歳月を考えるとむしろ若々しい。どうしてかくたびれた印象を受けるせいで、辛うじてああ彼も自分と同じ時間を生きてきたのだと思えるだけだ。
「ああ、花言葉が…色々あるんだけど、『切なる願い』って、言うんだって。早く、必ず、目を覚ましてほしかったから。」
「ふぅん。先生にしては随分ロマンチックなチョイスですね。奥さん素敵な人じゃないですか。」
絶句した。病院には何度も足を運んだけれど、あれほど待っていたのに何となく顔を合わせづらくて、ちゃんと向き合うのは今日がはじめてだったりする。意識が戻ったと彼の妹から連絡をもらったときは夢かと思った。願いが通じたのだろうかと、仕事が終わるのも待ちきれず駆けつけた。だが、そこで見たものは。
ルルーシュのやせ細ったてのひらを大事そうに包み込んで涙する見知らぬ男。その男を見つめるルルーシュの目も、今まで見たことがないような色をしていた。頬もこけて顔色も悪く、ひどく掠れた声で話しているのを背に聞いて踵を返した。綺麗だと思ったのだ。安堵もしたのだろうか。自分はあの、彼女と結婚して今は二人の娘もいる。だがあの時何も言わずにあの場を去ったのはきっと、自分勝手な胸の痛みのせいだった。
「知って、いたのか。なんだかばつが悪いな、ちゃんと俺の口から言うつもりだったのに、すまなかった、 ぃてッ!」
「殴るって言いませんでした?」
にっこり笑って一度頭をはたいて拳を引っ込めるルルーシュを恨みがましげに扇は睨んだ。
「グーでやったな。って言うか、記憶もしっかりしてるんだな。驚いた。」
その年最後の査察試験にぎりぎりで滑り込んで復帰した彼には言うまでもないのだけれど。不思議な話も聞いた。新米コーパイの着陸に、ベッドの上にいるはずのルルーシュが手を貸したのだと。あの事故機は徹底的に調べられて、それでもボイスレコーダーにはルルーシュの声は一言も残っていなかったのだが。あの、茶髪の幼い顔をしたまだ若い副操縦士。今はルルーシュと一緒に暮らしているとか。
「まだぼけるには早いでしょうが。体力の方は若干の衰えを感じますけど、頭ははっきりしていますよ。」
「そうか…。女房がよろしくって。実家が酒屋でな、子煩悩な彼女の父親が娘の名前をつけたやつを作ってさ。これ、大吟醸だぞ。」
持ってきた一升瓶よりは一回り小さい瓶を取り出す。
「『千草』ね。ああだから霞草か。惚気るのも大概にしたほうがいいですよ。」
「言ってろ。お前だってあんな親密そうでかっこいー彼と同棲しているくせに。日本酒は好きじゃなかったよな。彼と飲めよ。」
ほんの少しの、身勝手な。嫉妬と寂しさを隠してそう言えば、ルルーシュは僅かに顔を曇らせた。
「あいつは…そんなんじゃありません。律儀なやつなんですよ。変に恩義を感じてずっと傍にいてくれた。結構強引なやつで。俺もそれが心地よかったからつい甘えてしまったんだ。でもごく普通の、女の子たちにも人気のある将来有望なやつです。」
普通の、と、言ったときにすいと細められた目が苦しそうで、開きかけた口が言葉を見失う。沈黙が落ちて、だがしかしと記憶を辿った扇はルルーシュに言った。
「枢木って言ったっけか。こっちの整備士の女性陣にも人気あるやつだけど、でも彼、お前のこと好きだと思うぞ。」
「それは嫌われているとは思ったことはありません。気のいいやつなんです。優しいし…」
惚気ているのはどっちなのか。日に焼けない両手の指を神経質に一定のリズムで動かしながら、ルルーシュは口ごもりながら言った。
「ほぉ、それはよかったじゃないか。あのな、俺も病院でお前たち二人を見かけたことがあるんだが、いや、だって声を掛けづらかったというか割って入る勇気がなかったというか、まあそのだな。
明らかに『僕の恋人に触るな!』って、言われてるみたいだったぞ。」
「…は?」
いつも端麗に整っているルルーシュの顔が、間の抜けた表情に崩れた。扇はクツクツと笑って更に畳み掛ける。
「お前の部屋に向かう時の顔も嬉しそうでなぁ。デートの前の青少年って感じだった。だいたいお前だって分かっているだろ。なんで気づかない振りをするんだよ。」
ルルーシュは相手のそういう気持ちには敏感だ。あまり喜ばしいことではないかもしれないが、読み取ることに慣れてしまったのかもしれない。GOとNO GOの見極めをしなければならない機会は、自分が知らないだけでこれまで何度もあったのだろうから。気まずそうに視線を泳がせる、綺麗な横顔を見ながら同情とある種の敬意を表して心の中で躊躇うなと呟く。
「あー…それは、気の迷いってだけで…あいつ、まだ若いし、」
「若いって、もう30だろうが。もういい年した大人だと思うぞ。」
「でも結婚もしていて、」
「離婚しているんだろう?」
「普通の男なんですよ。女性を好きになれるまともな、」
「あのな。普通の、女好きな男が同じ男の裸見たいなんて思わないんだよ。お前は確かに別格かもしれないがッ…おい、二度目だぞ。」
バシリとまた、今度は背中をはたかれる。それなりに痛い。
「見せろなんて言われてませんよ。あいつに失礼ですよ。」
「いやでも看護婦さんが言っていたぞ、ご家族の方でもあんなに甲斐甲斐しくお風呂の世話までしてくれませんよって、」
「あ、あ、あなたなんでそこまで知ってるんですか!ストーカー!性質悪いですね、従兄弟に言って訴えますよ。」
「悪いことは言わない、あの金髪のにーさんだけはやめとけ。茶髪の人のよさそうな後輩にしておけよ。あれはお買い得品だと思うぞ。」
記憶を、思い返してうんと頷く。あれは本当にお前一筋だよ。信じていい。彼なら後悔も逡巡もなくお前を掻っ攫ってくれるはずさ。
「…なんだか、随分あいつの肩を持ちますね。ひょっとして会ったことあるんですか?」
じとっと見つめられてさあなと返す。
「そろそろ帰るか。明日も早いんだ。」
「ああそれは失礼いたしました。俺は明日から四日のオフだったのでつい長居を、」
こんなところは礼儀正しく頭を下げたルルーシュにこちらこそと首を振る。
「明日からそんな連休ってことは今日までずっと詰まっていたってことだろ。疲れていないか、顔色も悪いし…送るぞ?」
会ったときからおやと思っていたのだ。薄暗い照明のせいでよくわからなかったが、よくよく顔を覗き込めば青白く疲労の色が濃い。眠れなければ12時間のぶっ続けの業務だというから、責任感も人一倍強い彼には堪えるものがあるのかもしれない。コーパイ君に遠慮して外に出てきてもらったのだが、これなら彼の自宅を訪ねたほうがよかっただろうか。血色の悪い横顔は、ベッドの上の彼を思い出させてぞっとしない。
気遣わしげに訊ねた扇に、ルルーシュはいいえと笑って手を振った。
「なんでしょうね、若い頃はどこでも寝られたんですが今はあまり…大丈夫ですよ。帰って寝るだけですから。今日は久しぶりで楽しかったです。っと、これ。」
手のひらに乗るくらいの、綺麗にラッピングされた箱を取り出す。
「あっちで買ったんです。専門店まで足を向けられればよかったんですが、デパートで済ませちゃいました。オルゴールです。二曲入っているので、娘さんにどうぞ。」
悪戯っぽく笑って差し出されたそれを受け取る。外国なんて、それもヨーロッパなんて連れて行ってやったことがないから喜ぶだろう。
「ああ、ありがとう。…今度、うちに遊びに来いよ。うちの娘たち、まだ五歳だけどさ、伝説のキャプテンに会いたいって、うるさいんだ。」
「伝説?なんですかそれ…恥ずかしいから普通のおじさんだって言っておいてください。」
照れくさそうにルルーシュは言い、じゃあと手を振って背を向けた。その背中を見送りながら思い出す。静かに怒りを滲ませて、ルルーシュは僕のものだと言い放って行った男。
「信じろよ。あいつは誰よりお前を想っている。」