「お久しぶりです、スザク。」
6年前に別れた、元妻が訪ねて来た。



一つの再会と終わり


「…あれ、おまえ今日朝一?」
ばたばたと家を出る準備をしているとルルーシュがぼんやり声を掛けてきた。新聞が届くと一度起き出して目を通し、それからまた寝るというスザクから見たら若干謎のある習慣を持つ彼は、パジャマのままふらふらリビングをうろついていた。眠いのなら通して寝ればいいのにと思うのだが、短時間のサイクルで目が覚めてしまうらしい。
「スケジュール表に訂正入ったらしいんだ。ルルーシュのは大丈夫みたい。出発が三時間早まっちゃったんだよ。」
もう11月も終わろうとしている。外はまだ暗い。朝食を取る時間はぎりぎり確保できそうだが、起き抜けに慌しく詰め込むと胃が悲鳴を上げそうだった。コンビニで適当なものを買っていこう。
「まあ待て待て。10分待て。」
コーヒーメーカーのスイッチを入れて待っている間に、いつも早い時間にセットしておく炊飯器の蓋を開けたルルーシュがなにやらキッチンでごそごそやっている。
(おにぎりでも作ってくれるのかな。…ああ、よくぞここまで進歩した…。)
なんだか朝から感動して涙がちょちょ切れそうになってしまった。コーヒーにうっかりミルクを入れ忘れて(しかも量を間違えたので凄まじく濃い)吹き出しそうになってしまったが頬はにやけたままだった。
「ほら。海苔巻き。簡単だけどな。」
合わないからすし酢はなし、と独り言のように呟いてルルーシュはまた階段を上って自室に引っ込んでしまった。礼と出掛けの挨拶を背中に掛ければ欠伸混じりで手振りを返される。

車を発進させながら、弁当風呂敷を探す手間を省いたのかアルミホイルに包まれただけの朝食に目をやる。事務所についてから車の中でまだほかほか温かい包みを開く。ほうれん草のおひたしと親戚から贈られてきたらしい紅鮭の解し身の色が鮮やかだった。具は二品でごはんはただ炊いただけのもの。一口大に切ってあって、両端のしぼんだ部分もそのまままとめて包んであった。
「…速いはずだよな。男の手料理にちょっと手を加えたくらい。」
ルルーシュは料理に手を掛けるときは徹底的に凝るのだが、今日のように時間のないときは適宜手抜きになるのだ。アルミホイル然り端っこを抜かないのも然り。弁当と云うのも躊躇われるようなお手軽料理だ。でもコンビニで買うおにぎりよりもずっと舌に優しいし何より温かい。彼もまだぼうっとしていたのだろうか、巻きが甘くて崩れそうな形も何もかも、手抜きと云うよりは気安い気遣いを感じられて食べ終わる頃には心のどこかが痺れているような気がした。
「…完璧なお弁当じゃなくていいんだよ。あったかいのが一番いい。」

一人で呟いた言葉を聞いたものはいなかったけれど。




この日、スザクは人と会う約束があったのだ。
先週の時点で予定を訊かれた。
登録データも履歴もすべて消去したはずなのに、記憶野にこびりついて離れなかった、結婚していた女の、電話番号。
乗務するたびに電源を切るためにそのまま入れ忘れて、何度もかけたのに捕まらなかったと怒った風に言われた。電話口の声は懐かしい。およそ六年ぶりに聞いた相手の声に、もう何の感慨も抱かないことをおかしく思いながらスケジュールをやり繰りし、会えないだろうかと云うのになんとか昼間の内に都合をつけて、今日がその約束の日である。
まさか今更よりを戻そうというわけでもないのだ。ただ彼女なりに気持ちの整理がついたと、そういうことだろうと思う。もっと早くに会うべきだったと言う小さな声は昔のように落ち着いていた。ただ忙しそうにしているのを掴まえるほどの勇気がなかっただけなのだと続けるのに、言い訳がましさも感じない。



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「お久しぶりです、スザク。元気でしたか。」
現れた彼女は六年前と変わりないように見えた。変わらず愛くるしく、邪気のない顔で微笑んでいる。
「ああ。君は?再婚したって聞いたよ。祝電の一つも打ちたかったけど、控えた。」
「まあ、私に直接言ってくださればよかったのに。……なんて。そんな無神経なことを言うほど変わりがないわけじゃないの。」
赤味の強い緩やかなウェーブが目に鮮やかだ。長い髪は昔と変わらない。入社早々の好成績で目を掛けられ、上司がふと洩らしたことがきっかけで専務に話が行ったらしい。彼女は彼が目に入れても痛くないほど溺愛している、年頃を迎えた一人娘だった。
かわいらしい女だと、思ったものだ。
「…おめでとうで、いいのかな。」
「来年の春には。ありがとう。」

途切れがちな会話であった。言うべきことは一言だけだ。おめでとう。僕には逆立ちしても与えてやれない。

「…言いにくいのだけど、検査を受けてもらえないかしら。」

「――先天性の…」

「ごめんなさい。あなたのことは好きよ、でも――」




「――…ね、訊いてもいいかしら。どうしてパイロットに?」
躊躇いがちではあったがそこに後ろめたさはない。暗さも。それは今のスザクには好ましいことだった。謝られるのも、謝るのも馬鹿げている。昔に終わった関係だった。
「ん、ああ。話したことはなかたっけ。」
「一言も。特に嬉しそうでもなかったわ。」
ハネムーンの時に乗ったじゃない、そう言った声にかすかな翳りを認めてスザクはそうかもしれないと頷いた。かわいらしい女だと思った。結ばれて幸せだった。幸せだったが、それだけだった。
「その時の仕事でいっぱいだったんだよ。そうだな…小さい頃に両親が飛行場に連れて行ってくれたことがある。屋上から離陸していく飛行機がよく見えた。目を凝らすとコックピットの中から白い手袋をした手がひらひら動いているんだよ。」
あまりに大きな音と、すぐ目の前を羽ばたいてゆく機体に夢中になった。父親に抱き上げてもらって柵に身を乗り出しながら、タキシングを始めている飛行機のどこで、誰があれを動かしているのかと目を凝らす。ゆっくりと持ち上がる機首の手前で、自分に向けて振られている手が見えた。
「今ならわかるけど、あれは機長じゃないんだ。コーパイが屋上に見学に来た子どもを見かけて手を振ってくれたんだよ。嬉しかった。」
そう、と、頷くのを目の端に捉える。本当はそれだけじゃなかった。子どものころの憧れだけでまったく知らない世界に飛び込んだわけじゃない。
でも、言う必要はないと思った。彼女には、言わない。これは彼女に自分があげられる最後の思いやりだと胸の中で呟く。

Happy ...

「楽しい?」
「 、ああ。すごいキャプテンがいてね。ああなりたいって思う。」
ふと過ぎった声に気を取られていた。今はもうあやふやな記憶で、掠れた低い声が誰のものだったのか確める術はない。それでもよかった。昔、自分を救ってくれた声。記憶の中にあるだけでいい。今の自分はそれ以上に大切な人を見つけた。
「珍しいわ…スザク、あなたって、…いえ、いいの忘れて。」
「『プライドが高くて完璧主義で自分が一番』?」
「…いじわるになったじゃない。」
「そっちも大概。四半世紀も生きていない昔のことなんて思い出すのに勇気がいるな。」
失敗などしたことがなかった。人生の、たかだか二十数年の人生の中であっても、挫折したことなど一度もなかった。目の前に壁はないのだと信じていた。だから、初めてのそれは自分の中であまりにも重かった。自分ではどうしようもないことがもどかしかった。お前のせいじゃないのだからと云う慰めなど意味はなかった。立ちはだかる壁は決して超えることはできず、彼女の前からも職場からも逃げ出した六年前。

Happy birthday...

「今だって十分若いでしょう。まだまだこれからじゃない。」
「ああ。会えてよかったよ。」
「私、今日はあなたに謝りにきたの。でもやめたわ。昔の女が何を言ってもうるさいだけね。…彼女、できたんでしょう?」
打って変わって屈託のない口調を装っていたが、どこか祈るような響きを受けた。たぶん彼女も自分のことを愛してくれていた。ただ代替が利く存在だっただけで、自分だからという理由で特別になれるほどには届かなかっただけだ。
…そんなのは、お互い様だ。
謝られるのも謝るのも馬鹿馬鹿しい。
「弱るな…難しい人なんだよ。」
「綺麗な人なんでしょうね。」
「君と同じくらいにはね。」
「あらありがとう。ね、やさしい、人?」
「たぶん…今日はじめて手抜き弁当を作ってもらった。」
彼女が目を丸くしたのはきっと、弁当を手渡せる位置まで近づいていることにではなく。
『手抜き』の一言に得心がいかなかったせいだ。彼女はいつも完璧な妻、完璧な、母になろうとしていた。そうさせていたのはもしかしたら自分かもしれないと思うとすまない気持ちが押し寄せる。年を重ねたせいもあるのだろうが、それでもやっぱり彼の存在は特別なのだという感慨が胸に落ちる。
帰ろう。


「元気で。Good Luck!」



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