「お兄様、結局何も言わなかったでしょう。」
ナナリーは初めてC.C.に会った時のことを思い出していた。大学の夏休みに兄の部屋を訪ねた。綺麗好きで家事も得意な兄のことだ。自分が掃除をしたりたまった洗濯物を片付けるなんて必要はないのだ。でも食事をつくってやることはできるだろうと、レパートリーを増やした腕前を誉めてもらいたいなんて、わくわくしながら部屋を訊ねた。



「…あら?」
合鍵で開けた玄関には、女物の靴があったのだ。首を傾げて中に入る。少し、雑然としているだろうか。掃除はしてあるが片付けがされていないような。
「まあ…」
どうせ仮住まいだからとシンプルなパイプベッドを持ち込んでいたのだ。横幅はないが上背はある兄にはもしかしたら小さいかもしれないと思っていたグレーのベッド。
「ん?」
雑誌を繰りながら自分の部屋のように寛いでいるのは、もちろん兄ではなく。
羽織ったシャツは間違いなく兄のもので。
「結婚式は、いつですの?」
ああ、そういうことかと思った。



「さすがは妹だな。あいつの残酷なところをよく知っている。」
「残酷ですか。そうかもしれません。でも優しい人です。」
確か、あの日帰ってきて兄は僅かに動揺を見せた。無言で、談笑する自分とC.C.を眺めやる。おもむろにC.C.を示して言ったのはなんだったか――
「『怪しい者じゃない』で、合っています?」
「ああ、弁解にも開き直りにも不十分だ。どうせなら将来を約束した仲だとでも言えば、私もあいつを見直しただろうよ。」
苦笑ともつかない笑みを浮かべてC.C.は言った。会うたびにマイペースな人物だと思ったものだが、年は取ったものだと思う。もう彼女は兄を押倒して追及することもないだろう。眠りが二人を隔てた四年の間に、一歩だけ先に進んでしまったと考えるのはきっと正しい。
「でもお二人は恋人同士だったのでしょう。私、さっきも言いましたね。お兄様はあなたを贖罪の対象にするほどロマンチストでもなければナルシストでもない。罪の意識に耽溺して聖人君子を演じるなんて器用なことはできませんわ。」
「手厳しいなぁ。あいつ、お前がもうランペルージじゃないと知ったときに泣いたんじゃないか。」
「ご想像にお任せしますけど、悪い気はしませんよ。まあ兄は私の前で泣き顔を見せるようなかわいらしいことはしてくれないんです。妹の特権というよりは欠点なのだわ。一番近くにいるようでいて、一番見てみたい顔は決して見ることができないんです。」
ナナリーの視線にC.C.がたじろいだように見えた。この剛毅な女性も人並みの神経は持ち合わせているらしい。ブラザー・コンプレックスなど気負いもなく自負することの出来る自分を、ナナリーは恥じも悔いもしない。
これまでそしてこれからも見ることのないだろう兄の弱い姿は、蜃気楼の幻のように曖昧に揺らぐだけでいい。涙は他人(ひと)のそれを拭うものだと頑なに言い聞かせていた少年の日の兄が、ナナリーの知るすべてだった。だからC.C.の語る知らない兄の姿は羨んで見せても所詮は他人の色眼鏡を通してみたものに過ぎず、そうであればただ興味深く耳を傾けるものに過ぎない。
ナナリーはにこりと微笑んで先を促した。
C.C.はもういつものC.C.だった。




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語り口が緩慢になってきたのにスザクは気づいた。でもそれは言いよどむせいではなく震えすら消し去った熱のためであるとわかるので、ここで話をやめさせようか何度目かの逡巡をする。
「…俺が今の職に就いたのは、母が夢だったのだと言ったからなんだ。」
「お母さんも空を飛びたかったの?」
「家を守って子どもを育てての毎日に、不満を洩らすことなんてない人だったけど、活発で社交的な人だった。父のことで気持ちが滅入っているのを、子ども心に慰めようと思ったんだろう。物心がつく頃にはそれしか頭になかった。」
そっと額に手をやれば僅かに汗ばんで肌に吸い付く。腕を伸ばして水を注いだグラスを口にあてれば素直にこくんと嚥下した。まだ目覚めて間もない頃の、動きが不自由なせいで幼く見えた彼を思い出す。
滅多にないことだ。きっと最後だ。後悔は吐き出してしまえばいい。
やめさせようとしていた告白を、スザクは静かに促した。
「でも、ルルーシュは好きだろう。飛行機に向かう時のあなたは心から楽しそうで。義務でもなければ罰でもなかった。そんなつまらない人に僕は憧れたりしない。」
「…買いかぶりすぎだよ。確かに昔は、つまらないことばかり考えていた。」